第六十八話 時雨の本音



「ねぇ、葵。あの時どうして逃げなかったの?」

「……」


 時雨から葵へのこの問いかけは、時雨が家出をするまでに至った一週間ほど前――叢雲山から帰宅した翌日から、毎日続いていた。


 朔夜たちが花散里で妖宴の会に参加している頃。

 時を同じくして、布団に寝転がっている葵は、時雨に詰問されていたのだ。


「御当主様からも言われてたんじゃないの? ああいう時は真っ先に、自分と周りの人間の身の安全を考えろって。ボクは替えが効く存在だし、一人失ったくらいで家の人たちが文句を言ってくることもないでしょ。むしろもっと使える妖怪を寄越してくれるんじゃないの?」

「っ、オレは……!」


 諭すような声で、自分のことを当然のように蔑ろにする発言をした時雨に、葵は思わず声を荒げた。


「……オレは、何?」


 時雨はその先を促す。けれど葵はまた口を閉ざし、だんまりになってしまった。


「……とりあえずボク、今日は外に出てくるよ。葵は一晩、ボクが言った言葉の意味をよく考えてね」


 そう言って、時雨は部屋を出ていってしまった。玄関扉がバタンと閉じられた音がする。


 時雨に背を向けるように横向きになっていた葵は、仰向けに寝転がって、その目元を腕で覆い隠した。


「何だよ、時雨の奴……」


 これが“喧嘩”という分類に入るのかは分からないが……こんな風に時雨と言い合いになることは、ほとんどない。

 葵と時雨は、家族でもなければ、友達という名称で括れるような関係でもない。対等な関係ではなく、そこには常に“主と従者”という肩書が存在するのだ。


 そのため、時雨が従者として、葵のためを思って口を出すことはあっても、私情を挟んで葵に意見してくることは、あまりない。


 今回のことも、従者として、葵に仕える立場として、主である葵のためを思って敢えて厳しく言ってくれていることは、葵にも分かっていた。


 けれど、それでも――自分を替えの利くような存在などとは、言ってほしくなかったのだ。


 葵は服の上から、胸のあたりをぎゅうっと握りしめる。


「クッソ……」


 苦しくて、もどかしくて、ぐしゃぐしゃになった心を一旦落ち着かせようと思った葵は、一度考えることを放棄して、そのまま目を閉じた。



 ***


「朔夜くん家のお風呂は広いんだね。温泉みたいだったよ」


 風呂から上がった朔夜と時雨は、縁側で涼んでいた。ついさっきまで真白もいたのだが、茨木童子に呼ばれて渋々この場を後にしたのだ。


 大広間の方からは、組の妖怪たちがどんちゃん騒ぎをしている声が聞こえてくる。妖宴の会でたらふく飲んできたはずなのに……この組の妖怪たちは大酒飲みばかりだ。


「よかったら、時雨くんも混ざってくる? 時雨くんはお酒も飲めるんだもんね」

「うーん……今回は遠慮しておこうかな」

「そう?」

「うん。一応、葵の護衛を放棄してお邪魔してる身だからね。酒まで飲んでたなんてバレたら、本当に勘当されちゃいそうだからさ」


 時雨はへらりと笑ってはいるが、その声に元気がないことに、朔夜は直ぐに気づいた。


「東雲さん、心配してるんじゃないかな?」

「……うん、そうかもね。葵は優しいから」


 時雨は両手を床に付いて身体を斜め後ろに倒しながら、どんよりと暗い夜の空を見上げた。月は厚い雲に隠れていて見えそうにない。


「素の葵はさ、口は悪いし愛想もないし、一見冷たいように見えるんだけど……結局は優しいから、非情になりきれないんだよ。だからいつも、苦しんでる」


 時雨は夜空を見上げたまま、静かな声でポツリと、自身の思いを話し始める。


「だからね、ボクは……ずっと側にいたボクでさえも切り捨てられるくらい、葵には強くなってほしいんだ」


 替えの利く存在なんかに縛られないくらい、弱い心を捨てて――強く生きていってほしい。他者のために、優しいあの子が傷つくことのないように。

 だから、憎まれたって、嫌われたっていいから、敢えて厳しいことも口にするのだと。


 気づけば時雨は、葵にも伝えたことはなかった秘めた思いを、朔夜に伝えていた。


「そっか。時雨くんは、本当に東雲さんのことを大切に思ってるんだね」

「……うん、そうだね」

「でもね、僕は……それは少し、違うんじゃないかなって思うんだ」

「違うって……どういうこと?」


 朔夜から返ってきた言葉が否定の色を孕んでいた為、時雨はその訳を聞き返す。


「僕はむしろ……大切な存在がいるからこそ、人も妖も、より強くなれるんだと思う」

「より強く?」

「うん。僕もね、真白や父さん、母さんに組の皆……勿論、時雨くんや東雲さん、蛍くんに瑞樹くん、お店に来てくれるお客さんにって、大切に思う人たちがたくさんいるよ。皆のことを思うとね、心が温かくなって……皆の存在が、僕の頑張る原動力になるんだ」


 朔夜は優しく笑いながら、時雨の目を見て言葉を続ける。


「だからね、お互いに思い合っているのに、その気持ちに蓋をしてしまったら……それは、時雨くんも東雲さんも苦しいだけじゃないかな?」

「……それ、は……」

「だって時雨くんも、もし東雲さんが自分のことを蔑ろにしてたら悲しいでしょ? それに……時雨くんが自分のことを切り捨てられる存在だなんて言うのは、僕も嫌だなって思った」

「……」

「僕でもそう感じたんだから、もし東雲さんが同じことを言われたら、もっと苦しくて、悲しいんじゃないかなって……そう思うんだ」

「……うん、そうだね」


 時雨は家に一人きりの葵の顔を思い浮かべて、小さく頷く。


「あとは単純にね、勿体ないなって思っちゃうんだ。大切に思える人が側に……触れて言葉を交わし合える距離にいるんだよ? だったら、嬉しい気持ちは勿論、辛いのも悲しい気持ちも分け合えた方が、ずっと良いんじゃないかなって」

「……」


 穏やかな声音で話す朔夜の言葉に聞き入ってしまった時雨は、中々言葉を返せなかった。


 朔夜の言葉が、的を射ていたから。

 全て朔夜の言う通りだと、そう思ってしまったからだ。


 時雨は元から葵を慕っていたわけではない。むしろ、いつか牙をむいてやろうとさえ考えていたのだが――共に過ごすうちにすっかり絆されて、気づけば葵が大切な存在になっていた。


 だからこそ、葵を守るためならば、自分の身などどうなっても構わないと、そう思うようになった。面倒くさがり屋の自分が、葵のためなら、多少の汚れ仕事も面倒事も厭わないと思うようになったのだから。


 ――頑張るための、自分を奮い立たせるための原動力には、いつだって、大切なひとの存在がある。


「あはは、ごめんね。何だか話し過ぎちゃって」

「ううん、……ありがとう、朔夜くん」


 時雨は一言だけ返して、それきり口を閉ざした。

 時雨の横顔をチラリと見た朔夜も、それ以上言葉を紡ぐことはせずに、夜空を見上げる。


 そのまま暫くの間、二人で肩を並べて、星一つない濃藍色の空を見上げながら、時折吹く涼やかな夜風に身をゆだねていた。


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