第百七十九話 耀藍の決心
王城の朝は早い。
特に王城内にある王の私室や執務室は、いつ使われてもいいようにいち早く仕度される。
しかしここ数日、王の私室と執務室周辺は人払いがされていた。
王が呼んだときだけ宦官や女官がきて用事を済ませる。
常にいるのは、
三人は部屋に籠り、近日にひかえた芭帝国との交渉会談の最終準備をしていた。
この会談で事実上、主だった議題に
特に耀藍の仕事ぶりは鬼気迫るものがあり、珍しく湯殿にも行かずに無精ひげまで蓄えている始末だった。
「はあ、麗かな日差し、小鳥のさえずり。すがすがしい空気……うーん、すべてが徹夜明けの体にはとっても刺激的だね。ははは」
なんかもうすっかり気分のタガが外れた亮賢は、しかし腰に手をあてて二人を振り返る。
「だが我らはやった! やりきった! 準備は万全だ! 二人ともよくやってくれたな!」
「そうですね、王もお疲れさまでした」
鴻樹のいつもと変わらない柔和な微笑にも、疲労の色がにじんでいる。
「これで後は、会場に無事にたどり着ければ順調に話は進むでしょう」
「うむ、そうだな。ということで」
王は耀藍に人差し指を立てて、眉を寄せる。
「耀藍は即刻、湯殿へ行け」
長椅子で力尽きて天井を見上げていた耀藍は、青い宝玉の双眸だけをじろりと亮賢に向ける。
「なぜ湯殿のことを亮賢に命令されねばならぬのだ」
「開き直るな! 見た目が汚い! そして臭い! 余に対する不敬罪にも値するほどだぞ!」
「そなたも似たようなものだろう」
「一緒にするな! 余は湯殿には行っていたぞ!」
「まあまあ、亮賢様。たしかに耀藍殿は一番、根を詰めておられましたから。そのおかげでこうして早くに作業も終えられたわけですし」
「む、しかし湯殿には行ってほしかったぞ!」
がーがー言っている亮賢の言葉すら、耀藍には遠く聞こえる。
「……やれることはやった」
あとは会談で巧みに交渉を進められれば。
「呉陽国の物流は短期間で元の水準に戻る。加えて、山の民の塩の道を流通用に新しく開拓できれば、山の民や商人たちに新しい商売の機会を与えることができる」
マニ族をはじめとする山の民や商人たちが内乱の影響で受けた打撃も、新しい商いが生まれることで緩和されるだろう。
「そうすれば、建安の市場も以前のように豊かになる」
東の海の幸も、西の香辛料も。芭帝国からの穀物も。
さまざまな食材が手に入る、芭帝国内乱以前の豊かな建安の市場、呉陽国の民の食卓が戻ってくる。
「あと、オレがすべきことは……」
首をめぐらせ、痛みに顔をしかめる。確かに亮賢の言う通り、まずは湯殿へ行くべきかもしれない。ここ数日の集中力の残骸が背中や肩に淀んで、身体が重い。
「落ち着けオレ。そう、まずは湯殿だ」
亮賢や鴻樹が何かを話しているのも耳に入らず、耀藍はふらふらと室を出て湯殿へ向かう。
たっぷり時間をかけて数日分の汚れを落とし湯に身体を浸すと、身体の奥から力がみなぎってきた。
「よし。行けるぞオレ」
鴻樹に衝撃の事実を聞いたあの日から、ずっと考えていることがあった。それを実行するときがいよいよやってきたのだ。
ふ、と回廊の柱の影に男が立った。術師としての耀藍が
「耀藍様。おそうざい食堂、西の広場で営業を無事に再開した様子でございます」
「……そうか。ご苦労だった」
この時のために、この数日、やるべきことはやった。
豊かな食材の揃う、大陸屈指の市場。その景色を一番見せたかった人を、迎えに行くために。
しかし一方で、耀藍はとある決心を胸に秘めていた。
それは身を切られる以上につらい決心だったが、香織の気持ちを考えるとそうするのが最良、という結論に達していた。
「香織が否と言えば、無理強いはしない」
おそうざい食堂がより多くの人々に必要とされ新しくなった今、香織はおそうざい食堂を守りたいと言うかもしれない。
そのときは王をも説得し、香織をあきらめる覚悟をしていた。
♢
王の執務室。
供された軽い朝食のあと、お茶を飲んでいた亮賢がふと呟く。
「なんか耀藍、この数日は人が変わったみたいだったよねえ」
「なんですかいきなり」
「だってさ、大喜びですぐに香織を迎えにいくのかと思ったのに、何を思ったのか仕事に没頭しちゃってさ」
「だからこそじゃないですか」
「どういうこと?」
「香織さんを迎えたいからこそ、仕事を万全にしたかったんじゃないですか? 彼女は交渉会談の料理人でもあるわけですし」
「なるほどねえ」
「それに、よくよく振り返って考えてみると、耀藍殿が二十歳を待たずに入城したのって、香織さんのためだったと思うんです」
「はあ? どういうこと?」
「芭帝国との会談を通じて、おそうざい食堂でがんばる香織さんが食材を手に入れやすい状況にするためでしょう。術師として特使に、という話を紅蘭殿を通じてお伝えしてからですからね、耀藍殿が急に術師に前向きになったのは」
「それが本当なら、耀藍の香織に対する愛は本物だねえ」
ほう、と亮賢は茶を飲んで息をつく。
「自分の家の馬車が引いた少女が、とっても美味しい料理を作ってくれて、一緒に食卓を囲むうちに恋に落ちて、でも到底叶う恋じゃないと思っていたのに、実は自分の花嫁だったなんてね。これって運命じゃない?」
「たしかに、運命かもしれませんね」
「余は運命という言葉が好きだよ」
「ほう」
「天帝は等しく、我ら人間に手を差しのべてくださるという証拠だと思う」
茶を飲み干し、満足げな息をつく王に、鴻樹はすかさずとある冊子を渡す。
「これはなんだい、鴻樹?」
「おそれながら、王の運命です」
「へ?」
冊子を開くと、百花繚乱。国内から隣国に至るまでの美姫の肖像画がこれでもかと綴じられている。
「術師が結婚するのです。当然、王も早急にお后を持たれるのが筋かと」
「ま、待て鴻樹。余はまだ未熟者だ。后を迎えるなどとんでもない――」
「未熟でけっこう! 人は不完全な生き物なのです! 御一緒に成長していけるお后様をお選びになればよろしい! やるべき仕事もひと段落したことですし、今日こそは目録に目を通してください!」
「う……助けろ耀藍!」
きょろきょろと室内を見回すが、耀藍はまだ戻ってこない。
「いったい耀藍はどこへ行ったんだーっ!!」
「観念してください亮賢様」
「それに今、耀藍殿を探すのは無粋というものですよ」
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