第百七十八話 医師・華元化への王命



 「おそうざい食堂も新しい場所で再開できそうですね」


 薬草を煎じている華老師かせんせいの元へ、青年が訪ねてきた。


 背こそ高いがひょろりとした文人風で、柔和な印象を与える。

 どこかつかみどころのない青年である。


 小英しょうえい青嵐せいらんは新しいおそうざい食堂の手伝いで西の広場へ出かけている。

 華老師はひとり、香織に任された鍋の番をしながら、厨の土間の縁側に薬研を持ちこんで薬草を挽いていた。


「おや、あんたはこの前、薬をもらいにきた、確か……鴻藍こうらんさんだったかのう」

「その節はありがとうございました。おかげで、の具合もよくなりました」


 同僚、という言葉に華老師はピンとくる。

 先日、鴻藍と名乗ったこの青年。彼の黒衣は上等の絹で、上位の文官が纏う物。


「ただの御人ではないと思っておったが……耀藍が同僚ということは、さしずめ李宰相ですかな」

「いかにも。李鴻樹と申します」


 丁寧に拱手してから、鴻樹は言った。

「単刀直入に申し上げます。香織こうしょくさんのことです」


 鴻樹は、香織が呉陽国王家の末の王女であること、事情があり芭帝国後宮にいたが内乱の混乱で呉陽国へ逃げ、その途中で記憶を失ったらしいことを話した。


 華老師は静かに頷いた。

「そうじゃったか……怪我の処置をしたときに、首の後ろに後宮の刺青印を見たのでな、芭帝国の妃かと思うておったが、この国の王女とはな」

「香織さんを王城へお連れしてもよろしいでしょうか」


 若き宰相の柔和な眼差しに、真剣な光が灯った。


「それはわしが決めることではない。香織がそれでよければ、お連れになればよい」

「そうですか……」


 予想していた答えだが、仲良く暮らしてきた彼らの気持ちを思うと、鴻樹も胸が痛んだ。


「妹君がお世話になった御礼を華老師にしたいと王が仰せですが、何かお望みはございませんか?」

「礼などいらぬよ」


 華老師はゆるゆると首を振る。


「夢のように過ぎた、楽しい日々じゃった。香織がいなくなると寂しくなる……寂しくなるな」


 薬研を再びゆっくりと動かし始めた華老師の前に、鴻樹は封書を差し出した。


「これは?」

「おそらく華老師は礼を受け取らないだろうからと。その場合、華老師へ王命を伝えよと」

「王命? この老体に?」

「返事をいただいてくるように仰せつかっております」


 差し出された封書を、華老師は恭しく受け取って書状に目を通す。

 字を追っていた華老師の表情が驚きに変わった。


「なんと」

「ぜひに、とのことです」

「しかし……わしは一度、王城を辞した身じゃ。この身と技術は、名も無き民へ捧げると大昔に決めたのでな」


 この老医が、かつて王城で医官をしていたことは鴻樹も知っていた。

 相当な医術と薬の知識を持っていることも。

 王城を辞した経緯はわからないが、民のための医師でありたいという思いはずっと変わらないのだろう。


「もちろん、今までの町医師を続けてくださってよいのです。華老師や助手の少年たちがいつでも王城へいらしていただけるための王の配慮ですから」

「いつでも王城へ? なぜ、わしらに」

「おそらく、耀藍殿の住む私邸ならば、華老師たちも気兼ねなくお越しいただけるかと。耀藍殿への薬はついででよいのです。もっとも、香織さんが来れば薬はいらないかもしれませんが」


 その言葉に、華老師は白い眉の下の目をいっぱいに見開き、うれしそうに笑う。


「ふぉっふぉっふぉ、そうか。そういうことか!」

 鴻樹は微笑んだ。

「ええ。術師は、王家の末の王女を娶るのがしきたりですから」


 華老師は膝を打った。


「それは何より。ではこの華元化かげんか、謹んで王命を拝すると王にお伝えくだされ」

「かしこまりました。これからは王城でお会いすることが多いかと思いますが、よろしくお願いします」


 鴻樹は恭しく頭を下げてから、すかさず華老師の隣に座って文官の顔からただの柔和な青年の顔になる。


「実は、ついでに私にも、胃の腑に効く薬をいただけるとありがたいのですが……大きな声では言えませんが、我儘な王とぼんやりした術師のせいで胃が痛むことが多くて……あ、それと王が変なイタズラをするので眠りを邪魔されることがあって困っていてですね、何をされても起きないほど眠りが深くなる薬があったらいいなと常々思っているのですが……」


 鴻樹がここぞとばかりに愚痴をこぼすのを、華老師は楽しそうに聞く。


(王にも同僚にも恵まれ、その上、いちばん大切な存在も……耀藍、おまえは果報者じゃな)


 次に会ったらああしてこうしてからかってやろう――想像をふくらませ、華老師はまるで悪戯っ子のように笑いをこらえたのだった。

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