第百七十七話 新生・おそうざい食堂②


「……なるほどのう」


 太謄たいとうが持ち帰った書付に目を通した紅蘭こうらんは、くくく、と楽しそうに笑った。


「ほんに面白い娘よ。奇抜なことを思いつく」

香織こうしょく殿は、何と?」


 雹杏ひょうあんが茶器を差し出す。和木瓜わもっかの糖蜜漬けに湯を差し、生姜を数滴垂らしたものだ。


「うむ。馬車じゃ」

「馬車?」

「馬車を二十台ほど用意できないか、とな」


 ちなみに馬車一台は馬二頭、軒車けんしゃ、御者がセットになって一台、すべて合わせるとその価値は庶民の年収の半分以上になる。

 それを二十台。

 めったなことでは驚かない侍女があんぐりと顎を落としたことに、また紅蘭は愉快そうに笑った。


「そ、それで、どうなさるおつもりで」

「無論、用意する」

「本当でございますか?!」

「そういう約束じゃ。それくらい、我が家の財になんら影響もないしのう」


 たしかに、と雹杏は思う。この世に蔡家に購えない物などないだろう。


「それにしても……二十台もの馬車を、香織殿は何に使うおつもりでしょうか」

 紅蘭は、和木瓜湯を上品にすすり、満足げに麗貌をほころばせた。

「じきにわかる。数日後、西の広場へ行くぞ」





 抜けるような青空の下。

 建安の西の広場に、いくつもの白い幌が立った。


 もともと役所が芭帝国からの避難民用に張っていた物で、その下には手作りの長卓子や椅子が続々と運びこまれている。

 作業をしているのは数人の役人、あとは普通の人々で、よく見ればおそうざい食堂の常連ばかり。

 その場所の片隅に、大工たちが煉瓦造りの堅牢な厨を作っていた。近くに、すぐに使える臨時の野外用厨も作られている。


 建安の西に位置するこの広場で、おそうざい食堂が新たにスタートする準備が着々と整っていた。


 ふいに、艶やかな毛並みの赤毛馬が引く馬車が広場に入ってきた。

 馬車から下りてきた香織は急いで袖をくくりながら、作業をしている人々に挨拶をして回る。


「みなさん、お疲れさまです!」 


「お! 香織!」

「ちょうどよかった、竈に見てほしいところがあるんだよ!」

「長卓子の数が足りなかったら追加で作るんだが、どうだい」


 方々から話しかけてくる人々に「ありがとうございます!」「今行きます!」「わたしも手伝います!」と返事をしながら、香織はちょうど作業を眺める位置に陣取られた大きな日傘に駆け寄った。


「紅蘭様!」


 振り返った妖艶な眼差しが細められる。

「香織。馬車の乗り心地はどうじゃ」

「すごく良いです! あれなら小さい子やお年寄りも安心して乗れます! でも……」

 香織は言葉に詰まる。

「なんじゃ? なんでも申してみよ。不都合あらばすぐに直させるゆえ」

「ち、ちがうんです! むしろ完璧すぎます! ただ……すごく、豪奢で」


 下町から西の広場まで人々を運ぶ馬車だが、馬の質はもちろん、軒車の中は革張りの椅子に絹の枕が置かれた貴族仕様となっている。

 実は驚くべき点はそこではなく、そもそもこの世界において馬車の価値が前世でいえば高級車を買うのと同じくらい高価な点なのだが、そうとは知らない香織はただただ馬車の仕様が豪奢なことに恐縮していた。


「あの、あんなに豪華な馬車でなくてもよかったのですが……」

 紅蘭が高らかに笑った。

「案ずるな。あれでも最も簡素な物を用意したのだ。あの程度の馬車二十台くらい、我が家にとってはどうということはない」

「そ、そうなんですか!?」

「遠慮なく使うがよい。で、問題なく下町からの客はおそうざい食堂を往復できそうかえ?」

「はい。馬車の台数はじゅうぶんですし、あんなに乗り心地がよかったら皆さん、喜んでくれるかと」


 そう。馬車は下町からこの西の広場に移ったおそうざい食堂への往復手段として、小さい子連れの母たちや老人を優先して使おうと思っていた。


「急にお願いしたのに、こんなに早く準備していただいてありがたいです! おかげで、おそうざい食堂も早く再開できそうです!」

「それはよかった」


 紅蘭は優しい笑みをにじませたが、ふと香織の腕を見て表情を曇らせた。


「暴漢に襲われたそうじゃな。傷はもうよいのか?」

「ええ、衣の上からだったので傷も浅くて。もう大丈夫です」


 まだ包帯で覆われた左腕を香織は動かしてみせる。

 本当は、まだ少し痛みがあったが、華老師が練った軟膏のおかげで傷もほとんど残らずに治りそうだ。


「すまぬことをしたな」

「そ、そんな! 紅蘭様は何も悪くないです!」

「いや、楊氏ならばこれくらいやることはわかっていた。しかし周家のおじ様や李宰相の手前、我がしゃしゃり出るのもどうかと思ってな。こんなことになるなら、しゃしゃり出ればよかったと後悔しておる」


 紅蘭は本当に悔しそうに眉をぎゅっと寄せた。

 それを見て、香織はふと笑みがこぼれる。


「紅蘭様は……とてもお優しいのですね」

 途端に紅蘭の頬がサッと赤くなり、花のようなかんばせがさらにあでやかになった。

「な、なにを寝ぼけたことを。我が優しいなどと言うのはそなたくらいじゃ」

「いいえ、紅蘭様はいつもお優しかったです」


 周囲からは女傑として恐れられているようだし、香織も最初は怖かった。

 しかし思い出してみれば、紅蘭はいつも状況を分析して必要最低限の注意や指示を与えているに過ぎない。

 それが妥協を許さない言葉なので、完璧すぎる美貌も相まって怖い印象を相手に与えるのだろう。


「まったく……そなたは本当に変わった娘じゃ」

 ふい、とそっぽを向いて、紅蘭はふう、と息をつく。

「で? 変わったそなたから言われた変わった褒美もついでに用意しておるが、この新しいおそうざい食堂の場所へ運べばいいのかえ?」

「褒美?」

「約束したであろう。試食会に勝ったら、蔡家の梅園の梅をやると」

「そうでした!」


 香織は思い出して思わず顔がほころんだ。あの梅が手に入る。やっと、やっと――。

「梅干しのおにぎりが作れる! では、梅は華老師のお家に――」


 言いかけて、香織は口を閉ざす。


「なんじゃ? どうしたのだ?」

「あ、いいえ……その、梅は本当にうれしいです。受け取り場所は、もう少し検討してもいいですか?」

「うむ、よいぞ。そなたの良い時、良い場所へ運ばせよう」

「ありがとうございます」


 作業へ向かいます、と香織は紅蘭に一礼してその場を離れた。



(わたしは、そう遠くないうちに王城へ伺わなくてはならない……)


 李宰相にそう約束した。


 自分の過去を思い出した今、香織を、麗月リーユエを逃がすために死んでいった者たちのためにも、一日も早く王家へ王女の名乗りを上げなくてはならない。

 そうすれば、王城へ身を置かなくてはならなくなるかもしれないのだ。

 現に李宰相は「お迎えに上がりました」と言った。


 華老師たちを守り、より多くの人々におそうざい食堂を使ってもらうため、せっかく新しい場所へおそうざい食堂を移せたのに。


「わたしは、おそうざい食堂から離れなくてはならないの……?」


 前世の知識では、歴史上もファンタジーでも、王とか王族というものは気安く外出できなかった気がする。この世界もそういう常識なら、香織はおそうざい食堂を続けられなくなる。

 しかし。


「……あきらめたらダメ。あきらめたらそこで終わってしまう」


 香織はぐっと顔を上げる。

 前世ではあきらめ続きだったけれど、異世界ではあきらめずにやってきた。おそうざい食堂のことも、吉兆楼のことも、試食会のことも。


「李宰相に頼んでみよう。毎日、決まった時間だけでもいいからここへ来ておそうざいを作らせてください、って。それから……王城で梅干しを作る場所をお借りしなくちゃ」



 あきらめない、絶対に。

 おそうざい食堂は、異世界転生した香織にとって、前世叶わなかった夢そのものだから。

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