第百十六話 切なくて
(母は、旅芸座の花だった……)
歌や踊りを各地で興行する旅芸座で、いつも大人気を博していた人気妓女。
それが
(でも、それなのにどうして……?)
旅芸座の人気妓女の娘であった麗月が、なぜ芭帝国の後宮にいたのだろうか。
記憶の糸をたぐろうとするが、再び鋭い痛みが頭の芯を襲う。
(今ここで胡蝶様たちに心配をかけるわけにはいかないわ)
後でまた考えようと、大きく息を吸う。鼓動がまだ早かった。
「それにしても香織がこんなに舞い上手だったなんてねえ」
「ほんと、どうして今まで隠していたのよ。びっくりしたわ。『悠久哀河』をこんなに優美に舞うなんてね」
「胡蝶様、明後日はなんの心配もないですね」
「ええ。やっぱり思った通り、舞いも一流だわ」
杏々たちに応じながら、胡蝶は香織の顔を気遣わしげにのぞきこんだ。
どうやら香織は、歌舞に触れると過去の記憶を思い出すらしいということを。
「香織。明後日、吉兆楼をお願いね。でも無理はしないで」
(胡蝶様に心配をかけてしまったわ)
申しわけない一心から、香織は無理に笑顔を作った。
「はい、お任せください! この衣装だと、厨には立てないですけど」
少し冗談めかして言ってみる。胡蝶もいたずらっぽく微笑んだ。
「そうね、白い衣装だと汚れたときに落とすのが大変だから。厨のことは辛好さんに任せて、香織はお座敷に専念してちょうだい」
「はい、わかりました」
「厨のことは辛好さんにちゃんとお願いしてあるから、心配いらないわ。明後日は、ここへ着いたらすぐにこの衣装に着替えてね」
そのとき、衣装部屋の扉がほとほと叩かれ、
「胡蝶さま。白龍様がいらしってます。胡蝶さまとお話したいそうで」
香織はどきりとする。思わず、首元に手を当てる。
そこには、耀藍があの夜「おまえを守ってくれる」と言って首にかけてくれた、碧い首飾りがある。
(白龍様って、耀藍様のことよね?!)
耀藍は花街で遊ぶときは白龍と名乗っているらしかった。
(な、なななんで耀藍様がこんな時間に吉兆楼へ?!)
遊びにくるには時間がまだ早い。人違い?
「あら、白龍様が?」
胡蝶の表情が艶やかになる。
「うれしいけど、こんな時間にいらっしゃるなんて。夜に来てくださればいいのに」
胡蝶は二胡を置いて部屋を出ていった。
「白龍様だって!」
「あたしたちもちょっとお顔を見てきましょうよ」
「最近、ぜんぜん遊びにきてくださらなかったものねえ。あ、白龍様って、香織の護衛しているって本当なのぉ?」
「うんうん、あたしもそれ聞いたことある」
「白龍様って細身だけど、武術もされるのかしら。あの御姿で剣を握る姿なんてたまらないわ、あたしも護衛されたい……! ていうか香織、本当のところはどうなの?!」
ウワサの真相が知りたい、といった様子で三人が迫ってくる。
「いえ、あの武術というか護衛というか……家の方向が同じで……」
とりあえず嘘は言っていない範囲でごまかす。
「へええ、白龍様ってすごい御屋敷の御曹司かと思ったら、意外と庶民なのかしら」
「庶民でもいいわよ! あんないい男いないもの! あんたたち、邪魔しないでよ!」
杏々がいそいそと部屋を出ると、「ずるい!」「あたしも!」と寧寧と梅林も続く。
「……行っちゃった」
誰もいなくなった衣装部屋で手早く着替えを済ませると、香織は迷ってしまった。
「どうしよう、正面玄関に行ったら耀藍様に会ってしまうし……でも早く帰らないとお夕飯の支度が……」
考えあぐねた末、「きっと胡蝶様は耀藍様を別の部屋へお通ししているはず」と予想した香織は、普通に正面玄関から出ることにした。
しかし。
「あら
螺鈿細工の豪奢な卓子の上には、何やら上品な風呂敷包みが載っている。
そして耀藍は香織が来るなり、明らかに挙動不審になった。
(や、やっぱり……耀藍様、わたしに素っ気ない、というか、避けていらっしゃるんだわ)
目の前で視線を合わせずソワソワしている耀藍を見て、香織は鉄棒に頭をぶつけたような気分になった。
「胡蝶様、あの、今日もありがとうございました。また明日……」
香織がそそくさと帰ろうとすると、胡蝶が香織の襦の裾をがっちりつかんだ。
「白龍様、これまでのお支払いをまとめてくださるのはありがたいですけど、こんなに過分なお会計で……せめて香織の晴れの衣装でもお見せできたらよかったんですけど、すみませんねえ」
どうやら、耀藍は遊行代の支払いに来たらしい。
(そっか、出仕するようになったら花街へもあまり来られなくなるものね)
それにしても、と香織はこっそり思う。胡蝶たちは耀藍が術師だと知らない。
(明後日、王城で顔を合わせたらびっくりするだろうな……)
ぼんやりと香織が考えていると、
「晴れの衣装?」
と耀藍がなぜか身を乗り出した。
「なんなのだ、それは」
「ええ、明後日、香織にはあたしの代理として、吉兆楼で留守番をしてもらうんです。それで今、衣装合わせをしていたんですけど、これがまた綺麗でねえ」
「衣装合わせ……そ、そうか……」
(それでこんな中途半端な時間にまだ香織は残っていたのだな。会ってしまったのは誤算だったが……それならそれで見たかったぞ衣装合わせをっ!!)
という耀藍の心の叫びが聞こえるはずもなく、さらに挙動不審になった耀藍に香織は鼻の奥がツンとした。
(どうしてだろう……どうして、避けられているのかな……)
あの夜、あんなふうに抱きしめられて、香織は微かに期待してしまったのだ。
耀藍様は、自分を好いてくれているのかもしれない、と。
それなのにあの夜以来、なぜか耀藍は香織に素っ気なく、避けてさえいるようで。
そして今、挙動不審な耀藍を目の前にして確信に変わった。
(耀藍様、どうして? 耀藍様の気持ちがわからない……!)
「わ、わたしっ……失礼しますっ」
いたたまれなくなって香織が行こうとすると、
「待ちなさい、香織」
と胡蝶が優しく呼び止めた。
「白龍様、香織をお迎えにいらしたんですよね?」
「えっ?! いや、そうじゃなくてオレは」
「すみません、あたしったら気付かずに。ほら香織、白龍様もこう言っておられるし、御一緒に帰りなさいな」
「いやオレは何も言ってないぞ!」
「さっきの眩暈のこともあるし、香織が白龍様と一緒ならあたしも安心だわ。白龍様、香織をよろしくお願いしますね」
ほほほ、と笑って一人で話を進める胡蝶に、香織と耀藍が両脇から叫んだ。
「あの、胡蝶様、わたし一人で帰れますから!」
「胡蝶、オレはまだ、その……そ、そうだ茶だ、茶をもらってないぞ!」
「お茶なら今度またお出ししますよ白龍様。それに香織、また眩暈が起きたら怖いでしょう。こういうときは殿方を頼ればいいのよ」
あれよあれよという間に、香織と耀藍は背中を押され、外に出された。
二人の背中を暖簾の影から見送った胡蝶は、軽く息をつく。
「なんだか漂う空気がおかしいのよね、あの二人。最近、白龍様は香織と一緒じゃなかったみたいだし……これで仲直りできればいいけれど」
そんな胡蝶の呟きも知らぬまま、香織と耀藍はぎくしゃくと花街の大通りを歩いた。
(もう何回も二人で通ったことのある道なのに……)
まったく知らない場所にきてしまったような、心細い気持ちになる。
一方で、久しぶりに耀藍が隣で歩いてくれていることに、心が浮き立つ。
(うれしいけど、そうじゃないっていうか……ああ、もうどうすればいいの?!)
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