第百七話 国境偵察③


 山の民の一つ、マニ族の集落は、深い谷に囲まれた日当たりの良い場所だった。


 耀藍ようらん鴻樹こうきはマニ族長老の館を訪れていた。


 天井の高い木造の家屋はくつを脱ぐ様式で、通された板敷の大広間には両側にずらりと村の男たちが座し、長老は一段高くなった壇上に座していた。


 「呉陽国尚書令、李鴻樹りこうきと申します。こちらは近く蔡術師となる蔡耀藍」

 穏やかな笑みをたたえた鴻樹がのんびりと自己紹介をすると、場が少し和んだ気がした。


(山の民はずいぶん我らを警戒しているらしい)


 耀藍はそう感じた。

 おとなしくしているが懐に武器を持っているし、ぴりぴりとした緊張が肌を刺すほど伝わってくる。


「どうぞお顔を上げてください。わしはマニ族の長老、羊明尚ようめいしょうと申す」 


 髪もヒゲも真っ白で、大柄な老人に耀藍は既視感を覚える。

「初対面でつかぬことをお伺いするが」


 思わず耀藍が言葉を発すると、瞬時に場が緊張した。

 男たちは懐の武器に手をあてている。

 隣の鴻樹ですら、ぎょっとしたようだったが、耀藍を止めはしなかった。


(な、なんだろう、やはりいきなり話してはいけなかったか)


 そう思ったが、言いかけたものを今さら収めるわけにもいかず、耀藍は続けた。


「たいしたことではないのだが……建安へ商いに来ている塩商人の羊剛ようごうは御親戚であろうか?」

 すると長老は、ぱっと相好を崩した。

「おおっ、羊剛を御存じでしたか。あれは私の甥でしてな。まあ、早くに両親をなくしとるんで、私にとっては息子のようなものですが」


(やはりな。そっくりだ)

 耀藍はこっそり笑みをもらす。

 羊剛が普通の熊なら、こちらは白熊だ。大柄な風体はそのまま羊剛が齢をとったようだ。


「なんだ、羊剛のお知り合いなら、話しは早い。あいつに、こんな美丈夫の友人がいるとは思いませんでなあ」


 長老がそう言って笑うと、どっと場の緊張が解けた。


「どうです、羊剛は息災ですか。この頃、ご存じの通り荷を運ぶのが難儀になっておるようでしてな。こちらにもなかなか顔を見せませんが」


 鴻樹がすかさず、身を乗り出した。


「実は、そのことで我らはお伺いしたのです」

「ほう」

「芭帝国の内乱は、混乱を極めていると聞きます。それによって、戦を放棄して賊に転じる兵も多いようで、この呉陽国との国境の山々も賊の巣ができているとか」

「おっしゃる通りです。実はわしらも困っておりましてな。わしらは芭帝国と塩の取引があるんで、他の村のように無差別な略奪などはされんが、作物や家畜を盗まれることがこの頃多くなっていましてなあ」


 耀藍ようらん鴻樹こうきは顔を見合わせ、ささやき合う。


(無差別な略奪に盗みか。近くに兵站へいたんもないと見える。これは、いよいよ戦も末期だな)

(そうですね。ならば、芭帝国に対してこちらも強気に出られます。山の民を多く味方につければ、交渉は円滑かと)


 鴻樹が、羊明尚に頭を下げた。

「我らはこの国境山岳地帯の安全を確保するため、近く芭帝国と交渉の場を設けるつもりです。つきましては、交渉の場としてマニ族の領地をお借りできるとたいへんありがたいのですが」


「むう」

 羊明尚は腕を組んだ。村の男たちはざわめいている。

 そのざわめきは「交渉の場として領地を貸して、我らに何の益があるのか」という内容だ。


 耀藍は少し考えて、鴻樹に目配せする。

 鴻樹が頷いたので、耀藍は発言のために手を挙げた。


 場がしん、と静まる。


「先ほど、こちらでたいへん美味なるものをいただいた。乾酪を溶かして、それに野菜や肉をからめて食べる料理だ」

「おお、それはよかった。あれは我らマニ族の中では定番のごちそう料理でしてな。呉陽国の料理はあっさりした物が多いと聞くので、お口に合うか気になっておりましたが」

「あの乾酪の料理は、マニ族の塩も使っているとお見受けしたが」

「ええ、おっしゃる通りです。あれに入っているのはただの塩ではなく、我らの領地内にある塩鉱から採掘した岩塩を使っております。食べ物を美味しくする、神の塩と、昔から伝わっておるものです」

「その塩と乾酪、商いませぬか」


 耀藍の言葉に、羊明尚の表情が変わった。

 羊明尚は慎重に言葉を選ぶように言った。


「……商いたいのはやまやまですが、塩については政の話になりますな? 乾酪も、昔から貴国に商いたいと申し入れはしているものの、乳から作った物も特定の税の決まりがあるとかなんとかで、呉陽国の役人に渋られましてな」

「そこをなんとかいたします」


 隣で鴻樹がよし、と頷くのがわかった。

(塩と乾酪のこと、交渉の材料として最良だと鴻樹も思っているのだな)

 あと一押し、と耀藍は言葉を続ける。


「オレ……いえ、私の知り合いに、どんな食材でも上手に調理する料理人がおります。その者は庶民向けの食堂を営んでおります。私が王に話しを通した上で、その食堂であの乾酪の料理を出せば、必ずや民に広がるでしょう。採算が取れるとわかれば、役人も円滑に話を進めてくれるでしょう。塩の方は、急ぎ朝議にかければ、了承が出るでしょう。いかがですかな?」


 再び場がざわつく。羊明尚が閉じていた目を開いた。


「塩の話、本当に朝議にかけてくださるのか」

 今度は鴻樹が深く頷いた。

「もちろんでございます。尚書令として、必ずやマニ族の塩の商い経路を作りましょう」


 羊明尚は、白い髯の顔を柔和に崩してうなずいた。


「マニ族の料理が呉陽国に知られるのはうれしいことです。食堂で出してまず民に広める、というのが気に入りました。信憑性がある。その料理人の腕にかけてみましょう」

「では、領地をお借りできるのですか?」

「はい。こちらからも立会人を出させてもらえれば」


 耀藍と鴻樹は視線を合わせて頷いた。

 これで芭帝国へ交渉要請の使者をすぐに出すことができる。



(オレは、いつも香織こうしょくに頼ってしまうな)


 交渉の条件の引き合いに出してしまったことを申し訳ないと思いつつも、乾酪がとろけるあの料理を見て「食べたい! 作りたい!」と香織が喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。


(おそうざい食堂に早くマニ族の乾酪と塩を持って帰りたい。そして香織が作った乾酪火鍋が食べてみたい……!)


 おなじ作り方でも、香織が作った物はきっと一味違うだろう。

 それを楽しみに芭帝国との交渉を乗り切ろう、と耀藍は思ったのだった。



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