第六十五話 香織、杏々にカロリーを語る
「さっきから呼んでるだろっ」
「す、すみません!」
辛好がむっすりして、扉を指す。
そこには、10歳くらいの、赤い衣装を着たおかっぱ頭の少女がひっそりと立っていた。
「あれは
「わたしに?」
なんだろう、と思いつつ行ってみると、可愛らしい少女は深々と頭を下げた。
「
「同じもの……?」
「と、
「杏々さんが?」
(もしかして……さっき持っていったものを食べたい、ってこと?)
お盆をひっくり返したときの、杏々の顔が思い浮かぶ。
化粧っけのないやつれた顔には怒りや憎悪ではなく、悲しみが満ちていた。
あれは、食べ物を暴力で粗末にしたことへの、後悔の表情だ。
前世、智樹や結衣も小さい頃、癇癪を起して食べ物を投げたりぐちゃぐちゃにしたあと、きまり悪そうに悲しそうにしていたものだ。
さっきの杏々の顔は、あのときの子どもたちの様子を思い出させた。
(きっと、
食べ物を大切にしようという人に、悪い人はいないのだから。
「わかりました。すぐに用意しますと、お伝えください」
少女は「あい」と返事をして、上品なお人形のようにお辞儀をすると、ぱたぱた、と妓楼の中へ走っていった。
香織は急いで、作ったまかないを器によそっていく。
(杏々さんは無理なダイエットで胃腸が弱っているかもしれない。たんぱく質は控えめにして、鉄分を補う青菜を多めに、消化の良い大根は甘味噌をできるだけ落として多めに……)
「できた」
「
中へ入ると、杏々は布団の中で起き上がっていた。
杏々は、布団の上で握った手にじっと視線を注いだまま、低く呟く。
「あんた、なんであたしが貧血だと思ったの」
「それは……同じ人を、見たことがあるからです」
「同じ? 同じですって?」
翡翠色の瞳が、いぶかし気に香織をにらむ。
香織は臆せず杏々を見つめて、うなずいた。
「友人が、きれいになりたいと言って、ご飯を食べるのを我慢しました。白いご飯ひとくち、お肉ひとくち、野菜ひとくち。そんなふうにしか食べません。彼女は、どんどん痩せました。でも、きれいにはなりませんでした」
「ど、どう、なったっていうのよ」
「学校で、よく倒れるようになりました。動けば、すぐに息切れします。先生から貧血だと言われました。きちんと食べるように、と言われました。でも彼女は、きれいになるために食べるのを我慢し続けたんです。そして……病気になりました」
「病気? 貧血だったんじゃないの?」
「貧血は、ほんのはじまりだったんです。彼女は、拒食症という病気になりました」
「きょしょくしょう……?」
「食べたくても、食べられなくなる病気です。食べると吐いてしまい、痩せ細り続けるんです。自分の意志とは関係なく。最後には、骨と皮だけになってしまいます」
学校で倒れ、救急車で運ばれていった、かわいそうなクラスメイトを思い出す。
後で聞いた話しでは、「ほっそりした女の子が好き」と彼氏にフラれたことがダイエットのきっかけだったという。
「そ、そんな……」
翡翠色の瞳に、怯えた色がよぎる。
「杏々さん。食べ物には、カロリー、というものがあるんです」
「かろりー……?」
「そうですね、簡単に言うと、チカラの源のことです。
食べ物を食べると、元気になるでしょう? それは、食べ物が身体を動かすチカラになるからです。ヒトや動物は少しくらい食べなくても、すぐには死なないですよね? それは、ふだん食べ物からもらったチカラのうち、身体の活動に使わなかった分を、身体に溜めているからです。それが溜まりすぎると太る、ということになります。でも、身体の活動に必要な分を食べないと、身体が溜めたチカラを使う、つまり痩せることになるわけですが、それは先ほどお話した拒食症につながります」
「じゃ、じゃあっ、いったいどうすればいいのよっ。あたしは痩せたいのよっ。痩せなきゃ困るのっ」
香織は、そっとお盆を畳の上で差し出した。
「身体を元気に動かす分だけのチカラより、ちょっとだけ少なくて、かつ、栄養のあるものを食べればいいんです。わたしが作ったこの料理は、どれも痩せるためを考えて作ってあります」
まだ温かな湯気を上げる器を見て、杏々は叫んだ。
「馬鹿じゃない?! こんなにたくさん食べたら、ぜったい太るわよっ!」
「いいえ。さっきの、カロリーのことで言えば、どの料理の食材もカロリーが低いものなんです。この三品とお粥一杯ぶん、すべて合わせて、お饅頭二つ分のカロリーがあるかないかです。しかも、お饅頭を二つ食べるより、ずっと栄養があるんですよ」
「うそっ、こんなにたくさんあるのに、これがお饅頭たったの二個分ですって?!」
杏々は、香織とお盆を交互に見ている。
「カロリーは目に見えないので、信じられないのもわかります。ただ、今の杏々さんは、身体を回復したほうがいいと思うんです。お仕事のためにも」
「…………」
「そのためには、まずは少しずつ食べたほうがいいと思うんです」
「よ、余計なお世話よっ」
「杏々さんは、わたしが吉兆楼で働くのが、嫌なんですよね? だから、酢の物に悪戯をしたんですよね?」
「だっ……だからなんだってのよっ」
「そのことはもういいんです。それで、わたし、妓女さんたちのまかないを作らせていただくことになったんです。これは、今日作ったまかないなんです」
「これが……まかない?!」
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