第五十四話 料理の仕込みと甘い罠
中庭の厨に入って、半刻ほど。
今日も
肩越しに振り返って、小さな背中の動きとじっと追う。
香織はにんじんの皮を剝きながら湯をわかし、下茹での準備をしている。同時に、アク抜きに時間のかかるものは先に盥に放して、脇に置いてあった。
ざっとその様子を確認して、辛好は満足げにうなずく。
(ふん。若い時のあたしほどじゃないが、なかなか仕事が速いのは認めてやる)
しかも、正確だ。イモの芽の取り忘れも、ぬめり残りも、アクぬきも、皮むきも、どれを取っても小娘とは思えない熟練したものを感じる。
(あの容姿だから、てっきり故郷の国でもチヤホヤされて、容姿で金を稼いでいるものと思っていたが、なかなか生活力がある)
料理人ではない、と言っていたので、実生活で見に付けた技だろう。
自分も苦労をした身の上なので、肩書などよりも実行力のある人間が信用できると思っている。
けれども長年見に染み付いた天邪鬼気質で、そんなふうに思っていることを香織にはこれっぽっちも伝えていない。
香織はなにやら聞いたことのない歌を口ずさんでいる。胡蝶の話では、
(世界で一つだけの花……? 変わった節回しだね。芭帝国じゃ、ああいう歌が流行ってるのかねえ)
はて、この建安の都で今流行っている歌は何か? などと考えていると、
「……辛好さん。辛好さん!」
厨の勝手口から、誰かが呼んでいる。
香織の側の土間引き戸とちがい、こちらは楼閣に面した小さな扉で、主に妓女しか使わない。
(まったく、妓女の誰かが腹減って死にそうだとか、具合悪いから粥作れとか、どうせそういうことだろうよ)
不機嫌そうに扉から顔を出すと、なんとそこにいたのは
彼女たちは、この吉兆楼の売れっ子看板娘だ。
売れっ子の三人は、夜遅くまで座敷があるので、この時間は疲れ切って眠っているはずだが。
「どうしたんだい、あんたたち。こんな時間に」
「忙しいのにごめんなさいね、辛好さん」
「実はねぇ、きのう、お客さんから、歌劇の券をもらったんですよ。辛好さん、たしか歌劇、好きでしたよねえ?」
「な、なんだい急に」
そう。辛好は昔から歌劇が好きだった。
唯一の娯楽が
「バカ言ってんじゃないよ! あたしゃ忙しいんだ」
「演目は、今流行りの五国志演義。俳優は
「なんだって?」
辛好は思わず扉から身を乗り出した。
殷秋瑞は、当代随一の歌劇俳優と言われる名俳優で、彼の出演する歌劇の券を手に入れるのは難しい。
辛好も、数えるくらいしか見たことがない。
動揺する辛好に、たたみかけるように梅林が言う。
「それでねえ、ちょうど今ぐらいから、夕方までやっている回なんですって。お客さんは、仕事で行けないからってくれたんですけどぉ、この時間はあたしも眠いしぃ、それで辛好さんのこと思い出してぇ」
「辛好さん、いつも働きづめだし、夜もここにいなくちゃでしょ? ちょっとくらい歌劇を観に行ったって、バチ当たりませんよ」
「な、なに言ってんだい。今は仕事が」
「あら、あの娘がいるじゃないですか」
寧寧が厨の奥を指さす。香織は自分の作業に没頭していて、辛好と寧寧たちが話していることに気が付いていない。
「ちょっとの時間なんですから、任せちゃって大丈夫じゃないんですか?」
「ねえ、券がもったいないし、ぜひ行ってくださいよぉ、辛好さん」
寧寧と梅林に左右から言われ、辛好はちら、と厨を振り返る。
香織は、着々と仕事を進めている。
辛好の残りの仕事は、客用の
全体的な味見や、鮮魚を捌くのは、どうせ開店直前なのだ。
香織を使うようになったことで、辛好にはたしかに時間的な余裕があった。
「ふん。もらうだけはもらっといてやる」
辛好は券をひったくると、ばたん、と扉を閉めた。
作業台をざっと見回し、やり残した仕事がないかを確認する。――よし。だいじょうぶだ。
「ちょいとあんた」
「へ? は、はい!」
辛好に呼ばれるのは珍しい。
「あたしゃ、ちょいと用があって出かけてくる」
「はあ」
(辛好さんが仕事中に厨から出るなんて、珍しいな)
よほど、何か重要な用事があるのだろう。
「頼んだ仕事をいつも通りやっておくんだ。それから、火をよく見ておくように。いいね?」
「はい! いってらっしゃいませ!」
(辛好さんがいない間、しっかり留守を守らなきゃ!)
香織は気合を入れて、急ぎ足で出ていく辛好を見送った。
――辛好を見送ったのは、香織だけではない。
吉兆楼の玄関広間で、二つの影が手を取り合っていた。
「よしっ、行った行った」
「案外、ちょろかったわねえ」
「さ、もう一度、厨へいくわよ。あの小娘に見つからないようにやらなくちゃ」
寧寧と梅林は、ほくそ笑んだ。
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