第三十五話 耀藍のこだわり 


「香織!」


 ふらりと立ち上がると、白龍はくりゅう――いや、耀藍が、香織の方へふらふらとやってきた。


「耀藍様、なんでここに――って、わぷ?!」



 いきなり耀藍の長身が、崩れ落ちるように香織にかぶさってきた。



「ちょ、ちょっとちょっと耀藍様!!!」

「よかった……香織に会えて! もう腹が減って死にそうなのだ!」



「は?!」香織は、懸命に耀藍の大きな身体を腕で押しのける。「その辺のお店で甘味を食べてたんじゃないんですか?!」



「うむ。それも魅力的だったが、オレはやはり、ちゃんとご飯を食べてから甘味を食べたい主義だからな」

 生真面目に答える耀藍を見て、香織はふるふると拳をふるわせる。

「……こんなときにそんな主義こだわりを貫かないでくださいっ」


 想像するに、きっと耀藍は、最初こそおとなしく店の外で身を隠して待っていたが、そのうち腹が減ってきて、耐えられなくなったのだろう。

 ふらふらと店の前に出ていって、死にそうになっているところを妓女たちに保護されたらしい。


「ていうか、吉兆楼のお得意様だったなんて、聞いてませんよ! しかも白龍って、なんで偽名なんですか!」

「言ったら、香織がぜったいに一緒に連れていってくれないと思ったのだ。偽名なのは、花街で本名を名乗ると、何かと面倒なのでな」

「それならそうと言ってくださいっ」



 てっきり甘味を食べておとなしく待ってくれているものと思っていた香織は、脳内怒りメーターがどうしても上がってしまう。

 すると耀藍は、ふくれたように口をとがらせる。



「だいたい、いきがけに香織がおじやの味見をさせてくれなかったのもいけないと思うのだ。オレは結局、昼食を食べてないことになるだろう?」

「う、まあ、それもそうですけど……」

「ということで、怒らないでくれるか?」


(そんなに麗しいくせに捨てられた子犬みたいな目で見られたら、怒るに怒れませんよっ。くうう……美しい人ってズルい!)



 怒りたいのに怒れないジレンマで歯噛みする香織に、耀藍はたたみかけるように無垢な笑みを向けてくる。



「でもよかった。ここに来たら辛好のご飯もいいのだが、香織が作ってくれるならそれがいいに決まっているからな。というか、よくオレが香織の卵焼きを食べたいと思っているとわかったな!」



 あんたがリクエストしたんでしょーがっ、というツッコみを言う間もなく、耀藍は香織の目の前に座り、いただきまーすと食べ始める。



「ちょっと耀藍様っ、こんな出入口で……行儀悪いですよ! ちゃんと上座に席があるんでしょう――」

 見上げると、すぐそこに杏々が立っていて、仁王立ちしている。

 赤い口の端を上げたその美貌が、不穏ふおんなオーラを放っていた。



「……どういうことなのか、説明してもらいましょうか、香織」





「……つまり、白龍様はあんたと一緒にここに来たっていうの?」


 上座で機嫌良く白飯をかきこむ耀藍を遠くに見て、香織は頷いた。



「はい。まあ……」

 とたんに、杏々が香織の胸倉むなぐらをつかみ上げる。

「なんでよっ。なんであんたが白龍様と一緒なのよっ」

「そ、それは」


 隣国からのスパイ容疑で見張られている、とは言えない。



「しかも! なんであんたの作ったものをあんなに嬉しそうに召し上がってるわけ?! どうしてよっ。意味わかんないっ」

「お、落ち着いてください、杏々さん!」


 ちゃんと説明しなくては絞め殺されてしまう。

 というか、今後の仕事に差し支える。


(どうするわたし!)


 香織は必死に、返答をひねり出した。


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