第三十四話 お運びなんてムリです!


「料理が遅いわよっ」


 杏々しんしんは、座敷の外に控えていた妓女に、早口で耳打ちした。


「すみません、杏々姐さん。あたし、急いでってちゃんと言ったんですよ?」

「ふん、たぶん、辛好しんこうさんはあの新入りに作らせてるんだわ」



 杏々は、辛好の考えていることが手に取るようにわかった。



 上客である白龍の機嫌を損ねさせて、あの香織こうしょくとかいう小娘をクビにする気なんだろう。



(白龍様はお優しいけど美食家だからね。白龍様のお口に合わなければ、胡蝶様がきっとあの娘をクビにするはず)



 白龍はおおらかで穏やかな人柄だが、食にはうるさく、かつ厳しい。

 辛好の料理が花街で一番美味しいからという理由で、吉兆楼をひいきにしているくらいだ。



 その白龍に、目の前で「不味まずい」と料理を突き返されたら、あの娘はどんな顔をするだろう――杏々はほくそ笑んだ。



「ちょっと、もう一回催促してきてちょうだい。で、料理を運ばせきて」

「ええっ、そんな姐さん、ムリですって。料理を頼みに行っただけですっごい怒ってたのに、持ってこいなんて言ったら、あたしが辛好さんに殺されますよ!」

「大丈夫よ、作ってるのはたぶん、さっきの新入りだから。あの新入りに、料理を運ばせるのよ。いいわね?」



 杏々はぴしゃりと金碧こんぺき画のふすまを閉めると、蝶のように優雅な動きで、上座の上客のところへ戻る。



「お待たせしてしまってごめんなさい、白龍様」

「いや、よい」

「それにしても、おめずらしい。こんなお時間に、花街へお運びなんて。あたくしは、とってもうれしいですけど……」



 杏々は、上目遣いで客を見つめる。

 売れっ子妓女の杏々に、こんな視線を投げかけてほしい男は、この建安にごまんといるのだが、この白龍という男は、杏々の色仕掛けに酔ったためしがない。



(そんなつれないところも、魅力的なんだけれどね)



 この吉兆楼には、巨万の富を持つ男はよく来るが、容姿の整った男となると格段に数が減る。

 ましてや、富と容姿の両方を持った男など、この白龍の他に杏々は知らない。


(ぜったい、身請けされるなら白龍様がいい……ていうかぜったい見受けしてもらいたい!)


 そんな夢を胸に、杏々は端整な横顔に熱いまなざしを送り続けた。





 香織が卵焼きを冷ましているところに、さっきの妓女がまた駆け込んできた。

 すかさず、辛好が鬼婆の形相で怒鳴る。



「このバカっ。何度言ったらわかるんだいっ。くりやに走ってくるんじゃないよっ。食材や料理に何かあったらどうすんだいっ」

「す、すみません! あの、白龍様の御膳おぜんは……」

「知るかっ。そっちの小娘がやってるよっ」



 妓女は香織のところへやってくるなり、鼻をクンクンさせる。



「うわ、なんかいい匂い……じゃなくて! ちょっとあんた、まだなの御膳!」

「あ、はい、今、冷ましているところでして……」

「冷ますとかいいからっ、早くしてよっ、あたしが怒られるじゃないっ」

「え、はい、じゃあ、すぐに」



 本当は冷まさないと卵焼きは美しく切れないのだが、目の前の妓女がこれ以上怒られるのもかわいそうだ。



「うん、今日もうまく巻けた」

 卵焼き器はないが、なんとか鍋で形を整えて長方形にできた卵焼きに、包丁を入れていく。

 ふと気が付くと、妓女が、ヨダレを垂らしそうな勢いでじっと香織の手元を見ていた。



(結衣と智樹も、わたしが卵焼きを切るのをよく見ていたっけ)

 前世、子どもたちが小さい頃はよく卵焼きを作り、二人とも、香織が切るのをこの妓女のようにじいっと見ていたことを思い出し、香織はふふ、と笑った。



「あの、食べます?」

 残った切れ端を小皿にのせて差し出すと、妓女はおそるおそる黄色いタンポポ色の卵焼きを口に入れ、目を丸くした。



「……甘い!」

「えっと、こちらの卵焼きって、しょっぱいんですよね。わたし、ついクセで甘いの作っちゃって……お口に合いますか?」

 妓女はまだ目を丸くしたまま、しきりに首をタテに振る。

「あの、じゃあ、これ御膳できてるんで、お願いします。御用意できるのがこれだけで、申しわけないのですが」



 白いご飯に浅漬け、サッとできる青菜とお豆腐の味噌汁、甘い卵焼き。



 それだけが、豪奢な螺鈿らでん細工の入った御膳に載っている。



 すると妓女は、今度は首を横に振って、きまり悪そうに言った。

「あんたが、持って行かなきゃダメなんだって」



…………。



「ええーっ?! わ、わたしがお客さんの前に出るんですか?!」

「あ、あたしもよくわかんないよ。杏々姐さんがそう言ったんだから。と、とにかく御膳持って一緒に来て!」



 そんな無理ですと言う香織の背中をぐいぐい押して、妓女は座敷へ向かう。



「だって上客様なんでしょう? あたしは厨で働いているわけで、お座敷に出ていい身ではないですって!」

「知らないわよう、も、文句があるなら、杏々姐さんに言ってよ!」


 最上階の、金碧画の襖の前に着くと、妓女はそっと襖を叩いた。


「おはいり」


 中から、鈴の音のような声がする。



「や、やっぱり無理ですって」

「あんた、魯達様の座敷に出たんでしょ? ならだいじょうぶだって」

「それはちょっと違うっていうか!」



 道端で拉致されて、酌を逃れるために料理を作って出しただけだ。



「ほら、杏々姐さんが言ったんだから、怒られたりしないって。大丈夫だから」

「うわわわわ!」



 わずかに開いた隙間から、ぐい、と座敷の中に押し込まれ、後ろでぴしゃりと襖が閉まった。



(魯達様とは違う部屋だけど……やっぱり広い!)



 三十畳ほどの部屋は、まばゆいほどの豪奢な調度品が並んでいる。



 その上座で、杏々が手招きしていた。

 優美な笑みを浮かべているが、香織を見る目は笑っていない。



「こちらに御膳を。……ごめんなさい、白龍様。新入りなもので、まだ慣れてないんですの。ほら香織こうしょく、遠慮していないでこちらに早くお運びするのよ」

――ぼーっとしてんじゃないわよ!

 杏々の目はそう言っている。そしてなぜか、その目は意地悪に光っている。



 しかし、香織はそれどころではなかった。




「耀藍様?!」




 思わず叫ぶと、上座で不機嫌そうに座っていた銀髪の男が顔を上げ、花開いたかのように笑った。

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