第三十三話 辛好の思惑


(まったく、奇妙な小娘だ)


 辛好しんこうは、そうっと厨房のすみに目をやる。

 粗末な薄紅色の衣にたすきをかけた華奢な後ろ姿が、かまどと調理台を行ったり来たりしている。


 無理難題を押し付けたのは他でもない辛好だし、もちろん、香織が嫌だと言ってもやらせるつもりだったのだが……。

 おとなしく「わかりました」と言ったのが、どうにも解せない。

 しかも、ヤケでもベソでもなく、かなり肝の据わった目付きをしていたのが、気に入らない。


(普通は泣いて、できません、とか言うもんじゃないかね)


 相手は、建安一の妓楼『吉兆楼』の上客なのだ。

 上客からケチが付けば、クビが飛ぶことはもちろん、上客によっては粗相そそうをした者の家族にまで、るいを及ぼすこともある。

 だから、座敷慣れした妓女でさえ、上客の急な要望など、引き受けるかどうか、普通は躊躇ちゅうちょする。


(ま、あの変わり者の小娘のやることが、見込みどおり白龍はくりゅうの逆鱗にれるといいんだけどねえ)


 辛好は、ほくそ笑む。


 長いこと苦楽を共にしてきた胡蝶が、老いた自分を気遣ってくれているのはわかる。しかし、これまで一人で切り盛りしてきた厨房を、いきなりどこの誰とも知れない、しかも奇妙な小娘に乗っ取られてはたまらない。


(どうせ、実家が食い詰めて、妓楼に出されたが、妓女は嫌だと厨房に逃げるつもりなんだろうよ。はんっ、世の中ナメた娘なんざ、お断りだよっ)


 ラクをしたいから厨房で、という娘は、これまでも掃いて捨てるほどいた。

 その都度、こっぴどくコキ使ってやって、三日と持った娘はいない。


 周辺諸国で内乱が起きたり、災害があったり、なにかと不安定なこの世の中で、食い詰めて娘を妓楼に売る親は珍しくない。

 しかも、あの器量の良さだ。かなりいい値段で売れたに違いない。


(だが、どうも胡蝶の考えが読めないねえ)

 胡蝶の気質を、辛好はよくわかっている。胡蝶は、この花街で長年生き抜いてきただけはあって、百戦錬磨で計算高い。

 しかし、卑怯なことや逃げを、徹底的に嫌う。


(妓女より厨房女の方がラクだから、なんて言い分が、あの胡蝶に通用するわけないんだが)

 一体、胡蝶が何を思って、あんな奇妙な娘を厨房に送りこんできたのか、見当がつかない。


(それにしても、ほんとうによくわからん小娘だ)


 調理に関して、基本的なことはできている、というか、熟練したものすら感じさせるのだが、調味料の使い方や調理器具の扱い方に、どこか違和感がある。

 先日、魯達に出した料理も、かなり奇をてらった物だった。


(ひょっとしたら、この国の娘じゃないのかもしれない)


 呉陽国ごようこくは治安がよく、内乱もいくさもないことから、周辺諸国から人が移住してくることはよくある。

 特に、今は北の芭帝国ばていこくで内乱が起きていて、そこからの避難民が多く呉陽国へ入ってきているという。


(あの異国風の容姿からしても、芭帝国から流れてきた娘なのかもしれない)


 それならばなおのこと、早くお払い箱にしてしまおう。


 卵焼きを作っている様子の香織を見て、辛好は鼻で笑う。いい匂いがしてくるが、また奇をてらった物を作っているにちがいない。


(素朴な味を好む白龍の口には、合わんだろうよ)


 白龍の機嫌を損ねれば、胡蝶はそく、香織をクビにするだろう。

 辛好はくくく、と笑いをかみ殺して、自分の作業にもどった。

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