第三十二話 急な注文
「もうっ、グズだね!」
今日も、
「おたまはここにあるって、きのうも言っただろっ。何回もおんなじこと言わせるんじゃないよっ」
「すみませんっ」
「その
「はいっ」
香織は出汁の灰汁を取りながら、調理器具のある場所を目線で確認する。
(おたまとか、しゃもじ、
きのうは、別の場所からおたまが出てきた気がするが、それはもちろん、言わないでおく。
(包丁とか、危険な道具は、また別の場所にしまってあるのね)
すくった灰汁を流しに捨てつつ、辛好の動きを観察する。
(なるほど、包丁は、ああやって人目につかないように隠してあるのね)
三つある調理台のうち、辛好がいつも使っているらしき調理台の足元に、頑丈そうなカギの付いた箱があり、その中から辛好は包丁を取り出していた。
見て覚える。
前世、夫の実家で、学んだことだ。
勝手のわからない台所。
香織のちょっとした動きも見逃さないように見張っている姑。
ちょっとでも香織がミスをしようものなら、すかさず嫌味を言われた。
『今の若い子は、やっぱりダメねえ』と。
質問や確認にも嫌味がもれなく付いてくる。
だから、見て覚える――他人の台所では、これが最善の方法だった。
灰汁を取り終わり、指示された野菜を切っておこうと、香織はカギ付きの箱から手ごろな包丁を一本借りる。
にんじん、じゃがいも、玉ねぎが、山と積まれた調理台で、香織は作業を始めた。
(はあ、楽ちん。言われた通りに、切ればいいんだものね)
指示通りに切ればいいだけなんて、なんてラクな仕事なのだろう。
(にんじんは乱切り、ジャガイモは八等分、玉ねぎはくし切り、っと)
リズミカルに包丁を動かしていく。自然と鼻歌まで口ずさむ。
(そういえば……)
耀藍が、約束を守ってくれよかった、と思う。
香織の仕事先を聞いて、ヘンな顔をした耀藍だったが、妓女ではなく厨房で働くと言ったら、何も言わなかった。
おとなしく店のだいぶ手前から離れて歩いてくれたし、香織の前に姿を見せないと約束したし。
(今頃、お茶屋さんでお団子でも食べてるかしら)
花街の往来には、昼間になると甘味を扱うお茶屋さんがたくさん出ているんだな、と来るときに気付いたのだ。
化粧っけのない妓女と思われる娘たちが、店先であんみつのような物やお団子、点心などを食べているのを見かけた。
(そういえば、この世界に来てから、甘いもの食べてないかも。おいしそうだったな。わたしが帰る頃も、甘味売ってるといいんだけど……)
そのとき。
「た、た、大変だよっ、辛好さんっ」
若い妓女が一人、厨房に駆けこんできた。
「なんだいっ、騒々しいねっ。ここはあんたら妓女の来るところじゃないって言ってるだろうっ
辛好が目をむくが、妓女はひるまない。というか、だいぶ取り乱している。
「今すぐっ、卵焼きを……作ってくれって!」
「はあ? 何寝ぼけたこと言ってんだいっ。この仕込みの忙しいときに、あんたら妓女のために何かを作る時間なんざあるわけないだろうが」
「ちがうよっ、あたしらにじゃなくて……お店の超お得意様が、来てるんですよっ」
「超お得意様だって? 誰だい」
「白龍様ですよ!」
辛好は憎々し気に顔をしかめた。
「あのボンクラめっ、しばらく顔見せないと思ってせいせいしてたのに、何しに来たんだいっ」
「しいっ、声が大きいですよ、辛紅さんっ」
(察するに、魯達様みたいなお得意様が、急に訪ねてきて、卵焼き食べたいって言ってるのかしら)
たしかに、辛好が腹を立てるのもわかる気がする無茶ブリだ。
「と、とにかく、もう御座敷にお通ししてるんで、できるだけ早く用意してくださいとのことです」
「何言ってんだいっ。今は仕込みの最中だよっ」
「でも、お腹が空いて死にそうだって、フラフラされているそうなんです」
(フラフラ……ははあ、なるほど。それで、お座敷にも通したのね)
お得意様が来て、腹が減ったとふらついていたら、店としては準備中でも放っておくわけにはいかないだろう。
「あたしっ、ちゃんとお伝えしましたからねっ。お願いしますよっ」
もーだから辛好さんに伝言するのイヤだったのにーと妓女は半泣きで行ってしまった。
「……おい」
辛好が、香織を振り返った。
「は、はい」
「あんたが作んな」
「は?」
「卵焼きだよっ」
えええええ?!
「む、ムリですよ、わたし、その方、知りませんし」
「ムリでもなんでもやるんだっ。ここで働きたいんだろっ」
そりゃあそうですけど!
「てきとうに卵焼きと、飯と汁物を用意しなっ。あたしゃ仕込みの最中にあのボンクラのために何か作るなんて、お断りだよっ」
辛好は香織に向かって怒鳴りつけ、自分の作業場にサッサともどってしまった。
「ど、どうしよう……!」
お得意様へ何かを作るなんて、失敗すれば、クビどころでは済まない。
魯達のことを考えても、お得意様とはお金持ちであり、食にもこだわりのある人物に違いなかった。
しかし、香織が無視できる状況でもなかった。いや、むしろ、辛好に押しつけられた時点で、逃げられなくなっている。
「仕方ない……やるしかない!」
香織は、急いで汁物の湯を沸かし始めた。
湯の中に出汁昆布を小さく切ったものをしずめつつ、深呼吸する。
「落ち着いて……いつも通りに作ればいい」
結婚して15年あまり、二人の子どもをほぼワンオペで育ててきた。
もっと目の回るような戦場のような台所で、香織は主婦として、台所に日々立っていたのだ。
「どんなに大変なときも、今までなんとかしてきたんだもの……できるだけのことはやってみよう!」
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