第三十一話 憂いのおじや


「香織……香織!」

「え?」

「鍋が、吹いているが」


 ハッと見れば、鍋からぶくぶくと泡がたち、フタを押し上げている。


「うわわっ」

 あわててフタを取って、火を調整する。前世みたいに、スイッチひとつで火の調整ができないと、こういうときに困る。


「どうしたんだ? ぼーっとして」

「え、ぼーっとなんて、してませんて」

「してるだろ。やっぱり、仕事がつらいんじゃないのか?」


 憂い気な顔で、耀藍ようらんは香織をのぞきこむ。

 アクアマリンのような瞳、シミ一つない肌に、端整すぎる顔が、息がかかる距離にある。

 普通の女子なら瞬殺なシチュエーションだが、中身がオバサンの香織には、目の前の火加減と考え事が脳内の99%を占めている。


「仕事など、すぐに辞めろ。塩なら、オレが実家から持ってくる!」

 息巻いて瞬間移動の術を使いに行こうとする耀藍の絹の衣を、香織はがしっとつかむ。

「それじゃ意味ないです!」

「意味? 意味とは何だ」

「わたしが食堂で使う物を、自分で調達してくることに意味があるんです!」


 香織は、塩の入った壺を取り、そこから塩をさじできっちり計って鍋に入れる。


「食堂で出す料理に、こうやって華老師の家の台所の物を使っていたんじゃ、いつか華家が破産しちゃいますから。わたしがやる食堂の物を、わたしが調達するのは当然でしょう」

「む、むう、たしかに、理屈は通っているが……しかしだな。香織をそんなにコキ使うなんて、許せないぞ」


 今日は、食堂でおじやを出すことにしていた。

 鍋一つで済むし、あまりものも入れられるし、栄養も取れるし、いいこと尽くしだから。


 実際、耀藍の言う通り、香織は仕事で疲れきっていた。

(予想はしていたけれど……)

 辛好のしごきは、予想を超えて、キツイものだったのだ。

 けれど、働きたい目的がある香織も、勤務二日目にして折れるわけにはいかない。


 今すぐ寝台にダイブしたい衝動をガマンしている……というのは、耀藍にはぜったいに悟られてはいけない。

 疲れた、なんてちょっとでも言おうものなら、本当に手を回して香織を辞めさせそうだ。

 

 今も、香織が考え事と調理をしている後ろで、うろうろしながら不穏なことを呟いていたし。


「まったく、どんな仕事をさせている所なんだか。今日、オレが行って、話を付けてやる」

「で、ですから! わたしは大丈夫なんですってば!仕事先にはついてこなくてもだいじょうぶですよ!」


 耀藍は、一緒に行くと言ってきかないのだ。


「姉上から、すべての行動を見張れと仰せつかっている。オレもそうだが、香織も、姉上の命令に逆らう勇気があるのか?」

「…………」


(そうきたか……)


 確かに、蔡紅蘭さいこうらんは、香織を芭帝国ばていこくのスパイだと思っているらしいので、行動のすべてを見張るつもりなのだろう。


「……ほんっとに、お願いですから、ついてくるだけですよ? 仕事に口出しとか、しないでくださいね? お店の方たちの前に行くのもダメですからね!」

「それを守ったら、行ってもいいのか?!」

「紅蘭様に告げ口されるより、マシです」


 やったー、と子どものように喜んでいる耀藍を横目に見つつ、香織は「ぜったいに物陰ものかげから出ないでくださいねっ」と念を押す。


(妓女たちに見つかったら、ちがう意味で騒動になるもの)


 こんな超絶美形が花街の妓女たちの前に出るなど、腹を空かせた肉食獣の前に極上のエサを投げるようなものだ。


(蔡家の御曹司なんて、きっと箱入のおぼっちゃまだもの。花街に連れていったなんて紅蘭様に知られたら、えらいことになるわ……)


 新たな心配のタネが増えてしまったが、仕方ない。


 少しおじやをすくって、味見する。

「ん。美味しい」

 少し焦げがついてしまったが、味噌味なのでそれもアリだろう。


 しかし、今の自分の心境が反映されたような、焦げの香ばしさなのか、かすかな苦みなのか、微妙な味になっている。


(料理って、そのときの心境がけっこう出ちゃうのよね……)

 家庭料理ならそれでもいいが、食堂となるとそうはいかない。

(ああっ、わたしもまだまだ修行が足りないな。よし、辛好さんのシゴキは、修行だと思おう)

 香織は憂いを吹き飛ばすように、ぐっと拳をにぎって気合を入れ直した。


「おおっ、うまそうだな! オレにも味見させてくれ!」

「ダメです。耀藍様は、食べすぎるから、ちゃんとお昼の時間に食べてくださいっ。だいたい、朝も遅くて、さっき食べたばっかりじゃないですか」

「むう、つまらん」


 本当に、こんな細い身体のどこに消えていくのかと思うほど、耀藍はよく食べる。

 食堂が始まる前におじやがなくなってしまっては大変だ。


 今日は、野菜と卵のおじや。


 大根と、キノコと、青ネギと、卵の入った、子どもにも優しいおじやだ。

 この前の親子連れが、よく来てくれるようになったので、小さな子どもにも食べやすい具を考えた。


「あとは、ちょい足しの味噌と胡麻を用意して、っと」


 この味噌や胡麻も、華家の台所から出ていると思うと、心苦しい。


「一生懸命働いて、早くお給金もらって……ていうか、目指せ正規採用だわ!」

 ふとすると襲ってくる眠気と戦いつつ、香織は気合を入れた。



 午後に起こる騒動のことなど、この時は微塵みじんも想像できない香織だった。

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