第三十話 辛好

 昨夜来たので場所はわかっていたけれど、夜と昼ではだいぶ周囲の景色が違う。

 夜は妓楼の鮮やかな灯の中でさみしげに佇んでいた厨房の建物が、陽の下では窓や煙突から煙を出し、活気づいて見える。


「いいにおい……」


 思わず香織はくんくんと鼻を動かした。


「お出汁を取っているにおい」


 すると胡蝶が振り向いた。

「よくわかったわね。辛好しんこうの取る出汁は、いろんな素材が入っていて、複雑なのに」

「ええ、ほんとうに、いろんな匂いがします。かつお節や昆布だけじゃなくて、ホタテとか海鮮の干物とか、豚骨みたいのも、あるのかな……それと、ネギや、香辛料がたくさん」


 しきりに鼻を動かしている香織に微笑みながら、胡蝶は内心舌を巻いていた。


(辛好の出汁の素材は、あたしにしかわからないと思っていたけれど)

 においだけでここまで言い当てるとは――この娘、やっぱりただの町娘ではない。


「辛好。仕事中、悪いわね。入るわよ」

 胡蝶は軽く扉を叩き、中からの返事を待たずに入っていく。


「馬鹿者っっ」

 昨日の老婆が、奥の竈から顔を上げて怒鳴った。


「こっちは仕込み中なんだっ。勝手に入るんじゃないよっ」


(こ、こわい……)

 きのうもこわいと思ったが、怒りっぽいのはいつものことらしい。

 だからなのか、胡蝶は気にする様子もなく、老婆の近くに香織を連れていった。


「きのうも会ったでしょ。この子、香織こうしょくっていうの。厨房で働きたいんですって。使ってあげてくれる?」

「はっ、顔だけはいい小娘が。どうせ座敷で働くことになるんだろ。だったら最初っから座敷に連れてきな。ここは人手は足りてるんだ。顔だけよくても、ここじゃ使えないんだ。邪魔なだけだよっ」



 使えない人材――。



 記憶の奥底に眠っていた痛みが、目を覚ます。



――使えないオバサン。



 前世、パート先の若い女子社員に、そう言われたことを思い出す。



「まあねえ、この器量だし、あたしも御座敷に出したいくらいなんだけど……。どうかしら、香織。今からでも考え直さない? 辛好は悪気はないのだけどこの気性だし、お座敷で働いたほうが気がラクだと思うし、貴女の器量も活かせると思うのだけど」


 胡蝶は呆れたような笑みを浮かべた。


「こんな調子だから、辛好には弟子も付かないし、雇っても男女問わずすぐに辞めてしまうの。だから――」

「いえっ、わたし、辛好さんの下で、働きます!」 


 香織は、辛好に向かって、ふかくお辞儀をした。


「お願いします!けっして、おじゃまはしません。辛好さんのお仕事を少しでも助けられるように、がんばりますっ。ですから、どうかわたしをこの厨房で使ってくださいっ!」


 辛好は、仏頂面をさらにしかめてそっぽを向いている。


 胡蝶が、弾かれたように笑った。


「あっはっは、いいじゃない、辛好。ぜったい一緒に働きたくない人って妓女たちから陰口叩かれてる辛好に、頼みこんでまで働かせてくれなんて言う酔狂な子、他にいないわよ?」

「うるさいっ、この性悪女が。昼飯の粥に冬虫夏草を入れてやんないよっ」

「あら、ひどいわ辛好。本当のことを言っただけなのに。イライラするなら、辛好も冬虫夏草をお飲みなさいな」


 さすがは百戦錬磨であろう美女、辛好を軽くあしらっている。


「ね? この通りだから、我慢できなくなったら言ってちょうだいね。いつでもお座敷に入れてあげるから」

 胡蝶は蠱惑的な笑みを浮かべて、厨房を出ていった。

 香織は、ぎゅっと手のひらを握りしめる。



(使えない人材のままで終わりたくない……!)


 誰かの役に立ちたい。



 前世、主婦だったころから、香織がずっと抱いてきた想いが、辛好の険しい目つきを怖いと思わせなかった。

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