第十話 スパイかもしれないけど食堂はやりたい!


(ひ、ひええ!)


 動けるわけがない。これでは首を少し振っただけで辺りに香織の血が飛び散る。とんだスプラッターだ。


われは蔡家の当主代理、蔡紅蘭さいこうらんじゃ」

「…………」


(そんな居丈高に言われても……ぜんぜんわからない!)


 というか、香織にはこの世界の記憶がまったくないため、転生したこの美少女と後ろから短刀を突きつけている妖艶な美女にどんな関係があったのか知る由もない。


「驚いたか? 当主代理は弟だと思うておったのであろう?」

(はい???)

 驚くも何も、そんな事情は微塵も知らない。当主代理? 何のこと?


「弟だと思うておったゆえ、我が家の荷馬車にわざとぶつかったのであろう?」


 耳元で囁く低い声に、背筋が凍った。

 同時に腹の底がカッと熱くなった。


 わざとぶつかった?


――冗談じゃない。


「わざと馬車にぶつかるバカがどこにいるんですかっ!」


 自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。


 トラックにだってわざと轢かれたわけじゃない。

 パートで心身ともにクタクタに疲れて確かに死んだ方がラクかもしれないと頭の片隅でチラと思うことはあった。


 でもあのとき、香織は疲労困憊しつつも夕飯の献立を考えていたのだ。


 夕飯の支度をしようと思っていたから。


 どんなに疲れていても家族のために夕飯を作ろうと思っていたから。


 どんなに家族から冷たくされても、ご飯を作るのは妻であり母である香織の仕事だ。家族の健康を預かる大切な役割だ。

 どんなにつらくても、それを放棄しようと思ったことはない。


「イヤだから、つらいから、だからわざと轢かれるなんてこと私はしません! バカにしないで!」


 広い部屋に香織の怒声の余韻が響いた。

 その余韻が消える前に高らかな笑い声が上がった。


「面白い娘じゃ。腹を立てるところはそこではなかろうに」

 首筋から刃物が離れた。小気味よい音を立てて小刀を懐に収めると、蔡紅蘭は香織の向かいの長椅子に座った。


「そなたは芭帝国から来た娘ではなかったのか」

「そ、それは……」


 香織は無意識に首の後ろに手をやる。

 華老師の言っていた星印。この美少女の首には、隣の芭帝国後宮の妃嬪の証があるのだという。

 この妖艶な美女は、その場しのぎの嘘などすぐに見破ってしまうだろう。

 香織のように嘘をつくのが下手な人間は、この手の鋭い女には逆らわないのが一番。これも前世で学んだことだ。

 さすがに首の印のことは言えないが、他のことはありのまま話そうと腹をくくってグッと顔を上げた。


「すみません。私、記憶がないんです。馬車に轢かれて、華老師のお家で手当してもらって、目が覚めたときには自分がどこの誰かも思い出せなくて」

「我相手に、そのような言い逃れが通用すると思うたか」

「いいえ。ぜんぜん思いません。だからありのままをお話ししています」


 黒曜石のように煌めく瞳が香織をじっとのぞきこむ。香織も負けずに妖艶な双眸を見返した。


「不思議な色の目をしている。その陽に透ける髪色のような、透明な翡翠の色。見る者を魅了してやまない異国の美貌じゃ。その魔性を差し引いても……嘘を申してはおらぬと見た」


 異国の美貌。


 未だに鏡を見てないので自分がどんな容姿になったのかまだ完全に把握できていないが、この美女がそういうのならそうなのだろう。


「我が家の侍女として働くに充分な容姿じゃ。のう、雹杏。礼儀作法や仕事はそなたが仕込め」

「承知いたしました」

「ちょ、ちょっと待ってください!!」


 何勝手にこの家で働くことにしようとしてるんですか?!


「わ、私! こちらでは働けませんっ」

「なぜじゃ? 給金はたっぷり出すぞ。そなたが働いたほうが華老師の負担も軽減すると思うが」


 う、確かに。


 でも、でも……明梓めいしの言葉が浮かぶ。近所にふらっと立ち寄れる食堂があると正直助かる、と。それはあまりお金にはならないかもしれない。お金のことを考えるなら蔡家で働いたほうがいいのかもしれない。


 でも――と香織は思う。


 人の役に立ちたいと思う。

 そして、食堂をやってみたい。

 近所の人たちのためにもなり、自分の前世の秘かな夢が叶うことへのワクワクが抑えきれない。


 前世の香織なら、ここで自分を曲げていただろう。自分が我慢して済むならそれでいい、と。

 でも、今回は曲げたくない。

 食堂をやりたい。

 ああ私って、けっこう我儘で強欲だったんだ……


「私、華老師のお家で近所の人たちのために食堂を開くんです! だからこちらでは働けません。ごめんなさい」


 香織は紅蘭に向かってはっきりと言い切り、深く頭を下げた。


「貴女、御自分が何を言っているのかわかっているの? この名門の蔡家で働きたくとも働けない者は大勢いるのよ? それを、あなたのようなどこの馬の骨かもわからない、他国の間諜かもしれない者を雇ってくださると言っている紅蘭様の御慈悲がわからないの?! 身の程をわきまえなさい!」

「か、間諜……?」


 私……スパイってこと?!


 華老師の言ったようにこの美少女が芭帝国後宮の妃嬪なら、そういう状況もあるのかもしれない。

 が、この世界の世界勢力図をまったく知らない香織には自分が――というかこの美少女がスパイだなんて、ちょっと信じられない。


 でも、もしこの美少女がスパイだったとしても食堂はやりたい!

 スパイが食堂をやってはいけないことはないはず!……たぶん。


「よい、雹杏」

「ですが」

「この者をここで雇うのは、この者を監視するためじゃ。この者は何者なのか、本当に芭帝国の間諜なのか? その真偽が明らかになればこの者がどこにいようとかまわぬ。嫌だと言う者を雇うのも後味が悪いのでな」

 香織はぱっと顔を上げた。

「じゃ、じゃあ、私は」

「好きにせよ。華老師の家にいるがよい。ただし、見張りを付けさせてもらう」

「み、見張り?」

「そなたが芭帝国の間諜であるかどうかは、こちらで判断させてもらう。ゆえに、そなたには蔡家より派遣する見張りを付けさせてもらう」

「そんな! 見張られるようなこと、私しません!」

「それはこちらが決めること。そなたに拒否権はない。拒否するなら、蔡家で働くことになるが、いかがか?」


 ぐ、と言葉に詰まる。

 見張り、と聞いて筋肉ムキムキの兵士を思い浮かべ香織は泣きそうになる。そんなごつい人がいたら小英や近所の子どもたちを怖がらせてしまう。


 香織の心中を察したかのように紅蘭がにやり、と笑った。

「案ずるな。下町の者を怯えさせるような者ではない。下町でも顔の知られた者だ。雹杏」

「は、はい。お呼びしてはおりますが……」

「通せ」

「……かしこまりました」


 しぶしぶ、といった風に雹杏は内扉へ歩いていき、すぐに戻ってきた。


 雹杏が頭を垂れて開けた扉の脇に、背の高い人影が現れる。

 紅蘭が手招きをした。



耀藍ようらん。そなたにはこの者の見張りを申し付ける」








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