第九話 蔡家の青梅


 建安けんあんの都は、東西大通りと南北大通りに貫かれた整然とした大都市。いわゆる碁盤の目のような構造を持つ。

 都の北側には壮麗な王城がそびえ、王城を囲むように貴族や高級役人の屋敷がずらりと並ぶエリアがある。


 蔡家は、その一角にあった。


「う、うわあああ」

 香織は思わずマヌケな声を上げた。しかしそんなマヌケ声もこの美少女の鈴を転がすような声だと可愛らしく聞こえる。

(映画のセットみたい……貴族の屋敷ってこんなに大きいの??)



 白漆喰の高塀に囲まれた広大な屋敷は、回廊で繋がれた棟がいくつも並ぶ。二階建ての部分もあるようだ。瑠璃色の立派な屋根瓦が陽光を照り返している。



 前世の香織の家のリビングくらいはありそうな玄関でもじもじと待っていると、巨大な金色の屏風の影から使用人らしき水色の襦裙姿の女性が現れて一礼した。


香織こうしょく様ですね。こちらへどうぞ」


 促されるまま玄関で靴(と言っても下駄のような物だが)を脱ぐと、無言でスリッパのような物を渡された。皮でできていて前世で言えばバブーシュに似ているなと思う。こちらの世界は下駄のような靴が一般庶民の靴らしい。よって、足はけっこう汚れる。だから家に入るときは足を拭くか洗う。客には、こうしてスリッパのような物を出すのも頷ける。


 香織がスリッパを履くのを待って、女性はやはり無言で歩きはじめる。香織はあわててその後についていった。


(蔡家の当主が『うちの馬車が怪我をさせたお詫びを直接したい』と言うてな。まあ、悪い御仁ではないのじゃが……ちと変わった御方でのう)

 華老師の言葉が脳裏をよぎる。

 何事にも鷹揚おうような華老師が少し戸惑っていたのが気になった。


(確かにヘンよね。お詫びをしたいのなら華老師の家に使いを出すとかじゃダメだったのかしら)


 などと疑問に思いつつも、相手は異世界の貴族だし、と思い直す。

 雲上人の考えることは庶民にはわからない、と香織は前世でいつも思っていた。異世界でもきっとそれは変わらないだろう。


 廊下はいつしか外へ出て、回廊となって続いていく。本当に広いな、いったい何坪くらい敷地あるのかな。回廊の外側が中庭で、手入れされた木々や美しい菖蒲の花、大輪の芍薬の植栽が見事に植えられている。


 見惚れては先導する女性の背中を慌てて追いかけ、を繰り返していると、途中、少し離れた場所に青い実がたくさん広げられているのが見えた。


「あの、あれってもしかして、梅の実ですか?」


 思わず声をかけてしまった。とても立派な青梅だ。紀州梅のような大粒のつやつやとした傷ひとつない青梅。遠目で見てもそれがわかるほどだから、高級品にちがいない。とても気になる。

 女性は振り向いて少し眉を上げた。話しかけられたことに驚いたらしい。

「ええ、この時期はどのご家庭でも梅は漬けますでしょう?」


 当たり前のことを聞くなと言わんばかりだ。

 それでも香織は怯まずに言った。


「こんなに大量だと、漬けるのが大変ですね。赤シソも大量に必要ですよね」

 梅干しの赤い実を思い出し、唾が出る。ああ梅干しが食べたい!


 しかしそんな香織の言葉に女性は怪訝そうに眉をひそめた。


「赤シソ? 赤シソなど必要ないでしょう」

「へ?」

「梅ですよ? 糖蜜付けや梅酒、干梅、烏梅にするのに赤シソは使いませんでしょう。ま、庶民のお宅ではいざ知らず、少なくともこの名門の蔡家では使いません。蔡家の梅は、建安近郊にある蔡家の梅林から運ばれた最上級の梅なのですからね」


 女性はつい、と前を向いて足早に進んでいく。無駄な時間を取らせるな、とその背中が言っていた。


 盛り上がっていた梅干しへの情熱がしゅううう、と一気にしぼんだ。

(もし、お詫びに何か、と言われたら、あの梅を少し分けてくださいって言おうと思ったけど……)

 この世界では、どうやら『梅干し』は存在しないらしい。

 しかも「庶民」と「蔡家」では違う、蔡家の梅は最高級品だという線引きをされてしまっては、いくらお詫びの代わりにとはいえ分けてくださいとは言いにくい。 


 肩を落としていると、気が付けば目の前に立派な彫刻の施された大きな扉が見えてきた。

(な、なんだっけこれ……そう! あれだわ、『地獄の門』…………)

 昔、子どもたちを連れていった上野の西洋美術館前にそびえていた、ロダン作『地獄の門』のレプリカ。

 あの重厚かつ不吉な感じを思い起こさせる扉だ。


雹杏ひょうあんです。香織こうしょく様をお連れしました」


 ややあって、中からゆったりとした声が言った。

「入れ」


 え? 女の人の声?


 戸惑っている間にも扉が開き、広い部屋の奥に女性が一人立っているのが見えた。


(華流ドラマのお后様!!!)


 キラキラした豪奢ごうしゃな衣装、高く結い上げた髪、それを彩る多くの髪飾りが揺れてきらめくその下の顔は、女豹めひょうのような鋭いゾクリとするほどの美貌。


 華流ドラマで最も華やかなお后様。

――しかも悪役サイドの。


 毒々しいまでに美しいその花のかんばせの中で、真っ赤な形のよい唇がにやり、と吊り上がった。


「ようこそ蔡家へ、香織こうしょくとやら。こちらへ来て座るがよい」


 やや低めの滑らかな声には、獲物を睨む蛇のような毒が含まれている。

(な、なななんか、ここに来たらいけなかった???)


 華老師の複雑な表情を思い出すが、今さら回れ右をするわけにかない。後ろには雹杏が無表情で控えていて、無言の圧力をかけてくる。


「し、しししつれいします」


 ぎくしゃくと絹張きぬばり瀟洒しょうしゃな長椅子に座ったとたん、ひやり、と首筋が冷たくなった。

(?!)

 首筋に、刃物が突き付けられている。

 むせるほどの芳香が背中から香織を絡めとるように包んだ。


「動くなや? そなたには聞きたいことが山ほどあるでなあ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る