大阪・煮物屋さんの暖かくて優しい食卓

第４話 たったひとつの豚汁

「お父さまに喜んでいただけて、良かったですねぇ」

　なんて素敵な親子のお話なのだろうか。お互いの思いやりが心を暖かくさせてくれる。佳鳴（かなる）がしみじみと言うと、星野（ほしの）さんは「はい」とはにかむ。

「ほんまにあんなに喜んでもらえるなんて思わへんかったから、びっくりしてしもて。あの時のスーパーの定員さんにもほんまに感謝やで。何も判らずに野菜とか買うてたら、ちゃんとできてたかどうか。でも、作ったお料理を美味しいって食べてもらえるんって、凄い嬉しいことなんやね。それから僕も、誰かに手料理をごちそうになったら、美味しいって言う様にしてんねん。感謝の気持ちも込めて」

「それはええですねぇ。私らも、お客さまに美味しいとおっしゃっていただけたら、ほんまに嬉しいですもん」

「ここのご飯はほんまに美味しいからね」

「ありがとうございます」

　その時、星野さんが何かに気付いた様に「ん」と漏らし、手をジャケットの内側に添わせる。取り出されたのは黒の手帳型ケースに入れられたスマートフォンだった。

「ああ、陽子（ようこ）さん」

　画面を見て、星野さんは呟く。女性の名前、彼女さんだろうか。星野さんはスマートフォンを操作して、手帳型ケースのカバーを閉じるとまた内ポケットにしまった。

「陽子さんは父の再婚相手やねん。ご縁があって２年ほど前に」

「仲良くされてるんですね」

「そうやね。反発する様な歳でも無かったし、父がええならええかなって。まぁ僕はそのタイミングで家を出たんやけどね。一緒に暮らすんは気も使うし、ふたりの邪魔もした無かったし。で、曽根に越して来てん」

「なるほどです」

　それはお父さまもお相手の陽子さんも一安心だろう。特にお父さまはお母さまに裏切られてしまったこともあるので、女性に不信感を抱いてもおかしくは無かったのでは無いだろうか。

　だが新たに幸せになるために、陽子さんの心を掴まれたのだ。それは星野さんこそがご安心されたかも知れない。いくつになっても親御さんの再婚というものは複雑なものがあるのかも知れないが、星野さんはきっとお父さまの幸せを願われたのだ。

「ただね、父は再婚しても、豚汁だけは僕の作ったもんしか食べへんって言うんやよね」

　星野さんは呆れた様に、だがどこか嬉しそうに溜め息を吐く。

「自分でかて作れるし、もちろん陽子さんかて作れるで。それに陽子さんは生の野菜を使うてくれるんやから、僕が作るんより絶対に美味しいはずやのに。でも何でやろか、父はそう言うんよねぇ」

「それは、星野さんが最初に作られた豚汁が、お父さまにとってほんまに美味しくて、嬉しかったからなんでしょうねぇ」

　佳鳴のせりふに、星野さんは「あ〜」と参った様に空を仰（あお）ぐ。

「やっぱり影響してると思う？　そうやんねぇ。それしか考えられへんよねぇ。せやから陽子さん、また近いうちに豚汁作りに来てって」

　星野さんの言葉に、佳鳴は微笑ましくなって「ふふ」と小さく笑う。

「もちろんそれもあるんでしょうけど、お父さまと陽子さんは、単に星野さんのお顔をご覧になりたいのかも知れませんね。ご実家にお電話とかしはります？」

「用が無かったらあんまりしぃひんかなぁ。ひとり暮らしならともかく、陽子さんおるし、あんまり心配してへんのよね。まだまだ元気やし」

「それでもやっぱり、少しお寂しいのかも知れませんねぇ。近々帰ってさしあげてくださいな」

「そうするわ。お味噌も僕が使う用に、出汁入りのやつ用意してくれてんねん。液体のやつね。陽子さんやったら出汁から作ってくれるのに。でも父は「やっぱりお前の豚汁は美味しいなぁ」ってばくばく食うねん。陽子さんも一緒になって「ほんまねぇ」なんて言いながら食べてくれんねん。もうほんまに申し訳無いやらなんやらで」

　星野さんは弱った様におっしゃるが、佳鳴はつい光景を想像してにこにこしてしまう。お父さまと陽子さんの容姿が分からないので（仮）なのだが。

「お父さまは星野さんのお顔が見られて、星野さんの手料理が食べられるんが嬉しいんでしょうね。陽子さんもそれがお判りになるから、こうして星野さんにご連絡を入れられるんでしょうねぇ」

「そうなんやろうねぇ。うん、これも親孝行って言うんかな」

　星野さんは観念した様にそう言って、お椀に少しだけ残されていた豚汁をそっと飲み干した。

　それから星野さんは、もう少しお話をして帰られた。そのあとも営業はつつがなく続き、料理が終わってしまったので、「煮物屋さん」も閉店である。もうすぐ２３時だ。

　後片付けをしながら、姉弟は星野さんの話をする。

「しっかし、星野さんの前の母親、なかなかアバンギャルドな人やったんやな」

「いやぁ、アバンギャルドと言うかデンジャラスって言うか」

　星野さんの実のお母さまは、後の再婚相手となる男性と駆け落ちした訳だが、数日後記入済みの離婚届を、何の一筆も無く送り付けて来たそうだ。

　それはお母さまにとって、お父さまへの不満を表していたのかも知れないが、お父さまにとってそんな身勝手は許せるものでは無かった。それはそうだろう。

　だが星野さんへの影響を考えられたのだろう。お父さまは聞いて来られたのだと言う。「お母さんを懲（こ）らしめてええか」と。

　星野さんとて傷付いていたのだから、「うん」と考えることも無く頷いたそうだ。

　そこで離婚調停を起こしたのだが、その時渋々出廷して来たお母さまはこう言い放ったのだと言う。

「こんなに退屈な人やなんて思わへんかった。毎日同じ時間に出て行って同じ時間に帰って来る、単調でなんも無いつまらん生活。もうまっぴらやったわ」

　それは、普通の人の普通の、当たり前の生活である。だがお母さまはそれが我慢出来なかったのだ。

　お母さまの再婚相手は画家志望の男性で、ろくに働きもせずに絵ばかりを書いている人だった。

　そんな人と一緒になれば、芽が出ない限りは苦労するのは目に見えている。だがお母さまはそれを選ばれたのだ。

　苦労をしたいと言うよりは、刺激的な生活を求められたのだろう。

「そんなん会社勤めやったら、特に役所勤めなんやから結婚前から分かってたことやのに、何で結婚したんやろ、あの人」

　星野さんはそう言って首を傾げていた。

「もしかしたら、前のお母さまのお父さま、星野さんにとってはお母さま方のお祖父さまが、良く飲み歩いたりする方だったんでしょうかね？」

　佳鳴が言うと、星野さんは「ああ」と合点がいった様に声を上げた。

「そうかも知れへん。あの人の実家に行ったら、お祖父ちゃんいつでも酒飲んでた様な覚えがある。それを見て育ったから、男性はそういうもんやって思ってたんかも知れへんね。やったらお祖母ちゃんは苦労したんかも。今はあの人もろとも音信不通やけど」

　再婚相手の雅号（がごう）も聞いたとのこと。佳鳴と千隼も教えてもらったのだが、生憎さっぱりと聞き覚えは無かった。

「ってことは、まだ絵で身を立てれてへんってことかなぁ」

「どうやろうねぇ。有名で無くても、食べていけるぐらいには売れてる人もおると思うで」

「ああ、無名の画家ってところか。確かにそう言う人も多いんやろうな。俺らにはあんまり判らへん世界やけどさ」

「私らそっち方面無知やもんねー」

「でもさ、今は親父さんともその再婚相手の人とも仲良うしてるみたいやし、結果オーライってやつなんやろうな」

「そうやね。豚汁の思い出かぁ。何かええねぇ」

「ああ。姉ちゃんに聞いて、何か俺まで嬉しくなったで」

「私もやで。お父さま、星野さんにお会いできるん楽しみにしてはるやろうなぁ。親子団欒の食卓、ええよねぇ」

「そうやな」

　それは、佳鳴と千隼にはとても羨ましいことだった。だからこそ星野さんにはその素晴らしい時間を、ぜひ大切にして欲しいと切に願うのだった。