第9話

 結局わたしは、彼女のごみ箱も、自分の家のごみ箱同様、通りに出した。


 コバエは気持ち悪かったし、ものすごく重かったけれど、これ以上中に置いておくことはできないと思った。


 なんでわたしがこんな目にあわなきゃいけないのよ。なんでわたしばっかりこんなこと。


 心の中を不満でいっぱいにしながら、それを全身の力で押す。

 その一方、頭の片隅では、悪い想像が浮かんできて止まらなかった。ごみ箱を通りに並べて家に駆け戻った後も、震えが止まらなかった。


 どうして冬なのにこんなに臭いんだろう。こんなにコバエがたかっているんだろう。


 あの時聞いた、どううううん、という音。するどい悲鳴。そんなものが頭から離れない。


 まさか、彼女がこの中に……?


 気がついたらそんなことを考えていた。


 そんなことあるはずない!

 一階の人がオイルヒーターのスイッチを切らずに出て行ったから。

 長い間、ごみを放置してたから。


 別の理由を考えて、自分を納得させようとする。でも。


 やっぱりあのとき、様子を見に行けばよかったのか?


 怖かった。恐ろしかった。わたしは犯罪の手助けをしようとしているのだろうか。


 いや、そんなはずはない。あれはただのごみ。考えすぎだ。


 窓を開き、ハエを追い出しながら、手が震える。胸がどきどきと音を立てる。


 彼女はどこ? おなかの赤ちゃんは? 


 考えすぎだ。色々なことが起こってるから、変な風に考えすぎてるだけだ。



 いつのまにか夕方になっていた。

 ごみ箱を中に入れようと、コートを着て外に出た。


 ショックで動けなかった。


 彼女のごみ箱には、まだごみが入ったままだった。


 この町では、重すぎる個人のごみは回収してもらえない。こうなったら、駐車場のところにある、共同のごみ捨て場まで運ぶしかない。うちのごみ箱を中にしまうと、また、外に出た。ごみ箱を中に入れるという選択肢は、なかった。その冷たくなった取っ手をにぎった。


 ベルを鳴らしながら歌う讃美歌がここまで聞こえてくる。いや、賛美歌じゃない。それはもしかしたら鎮魂歌。


 どうか、この中に彼女が入っていませんように。どうか、今ごろどこかで、いつもみたいにマリファナをふかしていますように。赤ちゃんが、無事でありますように。

そんなことを願いながら、ごみ箱を押した。


 ごろごろごろ。


 讃美歌の声に混じって、ゴミ箱の底につけられた滑車が不気味な音を立てる。この、クリスマスソングであふれるにぎやかな通りに、不快な音を響かせる。


 一歩一歩足を踏みしめる。まるで、墓地にでも向かうような気分で。


 不思議な気分だった。彼女のことを考えているのに、ごみ捨て場に近づくにつれ、この中に入っているのが自分の死体のような気がしはじめていた。


 そんなはずはない。だってわたしは生きているし、こうやってゴミ箱を押してるんだから。気持ち悪い。なんでわたしがこんなものを捨てなきゃいけないのか。


 そう思う一方、わたしが自分でこうしなければいけないような気がするのだった。


 どうして生きるのは、こんなに辛いんだろう。どうしてこんな思いをしてまで、生きて行かなきゃいけないんだろう。


 人は、誰でも死ぬ。死は、いつだってわたしのそばにある。わたしがつぶしてしまったコバエたちだって、その一瞬前まで自分が死ぬことなど想像もしていなかったはずなのだ。

 それなのにわたしは、死ぬのが怖くて、家の中にずっと引きこもっている。


 ごろごろごろ。

 地獄の底から聞こえてくるような音。いや、自分が地獄に向かって歩いているのか? 何も、悪いことなどしていないのに。


 バカみたいだ。バカみたいだけど……やっぱり死にたくなかった。


 ごみ箱を押す。何のためかわからないまま、何をしているのかも、わからないまま。




 

「懐かしいなあ」

 イーサンはまだ、画面を見つめている。

「晩ごはんだから、子供たちを呼んで来て」

 あたしはそう、イーサンに頼んだ。そして、改めて自分の手を見る。

 温かい。ちゃんと生きている感覚はある。


 でも。


 誰か知っているなら教えてほしい。


 あたしは本当に今、生きているのだろうか。


 生きていると思っているだけなのではないか?

 死んだ瞬間の記憶をなくしているだけで、あのとき経験したどこかの時点で、死んでいるのではないか?

 この今の幸せな生活は幻影。もしくは死ぬ直前に見るという夢。そもそも、この記憶全てが幻なのかもしれない。


 イーサンに聞いても、「そんなはずはない」という。けれど、信じることができない。


 自分でも、どうしてそんな風に思うのかわからない。だけど実際、そうであってもおかしくないと思う。


 だってあたしは、生きるのは辛いと思いつつ、それと同じくらい生きることに執着していたんだから。


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