第8話

 何もしないまま数日が過ぎた。


 イーサンはまだ、帰ってこない。毎晩、窓にぴったり顔を寄せて、わたしは待っている。それなのに、あの日を境にあの男女の声が聞こえてこなくなった。……物音さえも。


 そんなある日の夜。

 わたしは下のふたりのケンカを止めようと階段を駆け下りた。半分前歯の溶けた白人の男の人。手に握ったナイフ。にらみつけてくる血走った目。そして男は奇声を上げて飛びかかってきた―。


 いやああっ!


 はっとして目を開く。

 夢だった。

 ほっとして時計を見ると、すでに午前十時を過ぎていた。


 ぶうん。


 耳元で不快な音がした。

 窓越しに外を見る。空には灰色の雲が立ちこめていた。人気のない通りに、緑色の大きなごみ箱が点々と置かれている。


 今日は、二週間に一度のごみの日か。


 ごみの回収日には、普段は建物の一階部分に置いてある、自分の体ほどもある大きなごみ箱を正面の通りに出すことになっている。その通りに収集車が来て、ごみ箱を空にしてくれるのだ。


 目の端に何かが映った。コバエだった。いつもは夏の暑い日に、果物の回りを飛び回っている小さなハエが数匹、わたしみたいに窓にはりついている。


 息をつめた。そして、ゆっくりと親指をコバエの上に押し付けた。指をゆっくりずらすと、そこにはもう、コバエの姿はなかった。ただ、小さな赤いしみだけが、まるで血痕みたいに窓ガラスに残った。


 わたしはその赤いしみを見ながら、のろのろと立ち上がった。ごみだけは、出しておきたかったからだ。


 二階に下り立つと、もわっとした不快な空気に包まれた。ききすぎた暖房のせいだろうか。


 ぶうううん。


 顔の周りをコバエが飛んだ。何気なく、リビングに足をふみいれた。


 息が止まった。


 外に面した大きな三枚の窓ガラス一面に、赤黒いものがぞわぞわとひしめいていた。コバエだ。大量のコバエが、うごめきながら隙間なく窓にはりついていた。


 全身に鳥肌が立った。昨日の夜には、なにも異変を感じなかったのに。


 一体、何がどうなっているのか。


 キッチンに向かう。戸棚にかくした生ごみのバケツにも、大量のコバエがたかっていた。

 においをかぐが、異臭、というほどでもない。袋の口をぎゅっと閉めた。まとわりつくコバエをはらいながら、玄関のドアを開いた。

 

 ぞわっ。


 そんな音がして、自分の回りの空気が動いた。


 コバエが黒いかたまりになって入ってきて、わたしの体にまとわり着いた。その羽音を耳元で聞くだけで全身の毛穴がぞわっと音を立てて逆立った。体に触れるのが気持ち悪くて、言葉にならない声をあげて振り払った。


 助けて。誰か来て!


 恐ろしさに声も出ない。ただ狂ったように手足を動かすだけだ。それでもコバエはわたしを食いちぎろうとでもするかのようにまとわりついてくる。耳から口から鼻から、体内に入ろうとしてくる。


 両手両足を振り回しながら、裸足のまま階段を転げ下りた。


 一階に下り立ったとき、強烈な異臭が鼻をついた。息を止めて共有部分の奥のスペースを見る。胸の高さほどもある大きなごみ箱が二つ並んでいた。そのうちの一つ、彼女が使っているごみ箱の上部からは白や黒の袋がはみ出していて、ふたが閉まらずに半分開いていた。わたしの気配に感づいたさらに大量のコバエが、ごみ箱から一斉に飛び立った。ぞわぞわと駆け上がってくる気持ち悪さに、ブティックに駆け寄り、そのガラス張りのドアをたたいた。


 それで気がついた。


 そこは、もぬけの殻だった。

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