第7話

 翌日からはもう、外に出ることができなくなった。


 最初の数日、わたしを苦しめたのは、見開いた目や奇声、窓をたたく音。けど、それよりも怖かったのは、ブレーキをふんだときに感じた、あの、どん、という衝撃だった。


 仕返ししようとしたわけじゃない。あれは事故だ。でも。


 フロントガラスの方には誰もいなかったと思う。でも、あの感覚がまだ体に残っている。


 イーサンも心配してはくれたが、

「基地からは轢き逃げのニュースは聞いてないから、大丈夫なんじゃない?」


 他人ごとだった。


 今、彼は機密案件を取り扱っているという。わたしにさえどんな仕事をしているか教えてくれない。自分のことで精いっぱいみたいだった。

 夫婦だって、所詮そんなもんだ。ましてや、友達には話せない。「へー、怖かったんだね」と言われて噂の提供者になることはできても、共感は得られない。


 ……わたしがそうだったように。そして、それを身をもって感じてしまったら、もう、立ち直ることさえできないような気がした。


 だからわたしは、夜になると三階の寝室から二階のリビングへと向かった。


 そろそろ、かな。


 リビングの大きな窓を少しだけ開いた。冬場の平日、夜も九時を過ぎれば人通りはない。


 夜になると、下の住人のところに白人男性がたずねてくる。白いバンを店の前に止め、中から洋服のかかったカートや、円形の大きな洋服掛けを出して中に運び入れる。そして、ふたりで会話を交わす。


 最初は、店も開けてないのに夜にこそこそ荷物を運び入れるなんて、実は盗品じゃないのか、と疑ったりもした。でも、今はそれも、どうでもよかった。わたしは悪いことなどしていないのに、ここでは、そっち側の人間に分類されている。この人たちとわたしは、同類なのだ。


 物が壊れるような音に、なにかをたたきつけるような音。それにまじって、女の人が泣きながら何か叫ぶ声が聞こえた。男が怒鳴り、女が叫び返す。


 最近、ケンカの回数が増えている。


 それでも耳をすます。わたしはただここで、ふたりのやり取りを聞くのが好きだった。その声を聞くだけで、自分は一人じゃない、と思えた。ここに居てもいい、と、認められた気がした。


 きゃあああああっ。


 空気を切りさくような金切り声がした。男の人がさらに大きな声で怒鳴る。様子を見に行こうかと、一瞬、思った。でも、巻きこまれるのが怖くて、体が動かなかった。


 ガンガンガン。


 今日は、いつものケンカとは違う気がする。まるで……殺し合いでもしてるみたいだ。


 とっさに思ってしまってから、慌てた。いくら想像でも不謹慎すぎる。考えるのをやめて、いつものように息をつめて聞き耳を立てた。


 NOーーーーーーーーーーーーーッ!


 女の人がもう一度、するどい悲鳴を上げた。


 どうううん。


 全身に鳥肌が立った。今まで聞いたこともないような、大きな音。

 そしてそれきり、嘘のように静かになった。


 耳を澄ました。


 どこかで犬が吠える声がした。向こうの大通りを車が走り抜ける。

 怖くなって、窓を閉めた。

 眉間にしわを寄せ、苦しそうに煙を吐き出す、あの女の人の顔を思い浮かべた。そういえば、彼女の名前さえ知らなかった。

 最初に会ったとき、


「へえ、日本人なんだ。困ったことがあったら言ってよね、力になるからさ」


 見ず知らずのわたしにそう、言ってくれたのに。

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