第3話


 わたしも日本人のはしくれとして、「そうだよね、怖いよね。わかるよ。頑張ってね」と、日本人的な無難なコメントをしてそのまま電話を切ろうとした。


 けれども、エイミーとリズはやっぱりアメリカ人だった。


「でも、あんたの住んでるのは基地のそばだよね。ミリタリーポリスだって巡回してるし」

「そうだよ、こんな脅しにビビって家にこもるなんて、負けたと同じよ! あたしたちは何も悪いことしてない。堂々としてなきゃだめよ!」

「毎日のようにライフル持った軍人がうろうろしてんのよ! 『外を出歩くときは周囲に気をつけろ』って言われてんのよ!」 


 さすがに今回ばかりは、クリスティも、ヒステリックに叫んだ。


「みんなが敵に見える。みんなが、あたしを殺そうとしてるのよ! 車は外に停めてるのよ! 爆弾仕掛けられてるかもしれないじゃない! 怖くて運転なんかできない! まだ戦争だって起こってない。なのに、あたしたちの周りだけ、もうすでに戦場よ! あたしはね、世界は平和だと信じて生きて来たの。こんなところでこんなことに巻き込まれるなんて、まっぴらごめんだわ!」


 それに比べ、わたしはまだ危害にもあっていなくて、比較的平和なオランダに住んでいるのだ。どんなにいやだとごねても、まだこの状況で家にこもることはほぼ不可能だ。ともすれば、エイミーとリズが「となりから預かった」荷物をもってここに押し掛けてくるかもしれないのだ。


 もう一度、腹の底から大きなため息をついて、重い腰を上げた。


 鍵をかけたことを確認して、階段を下り、ブティックと共通になっているドアを開いて外に出た。


 人の気配がした。一階の住人が、ドアのすぐそばで立ったままマリファナを吸っていた。妊娠していて、今にも生まれそうなくらい大きなおなかを抱えていた。いつもぎりぎりのところまで吸ってから、その辺にぽい、と、捨てる。通りがかりの老婦人などがあからさまに顔をしかめても、気にしなかった。


「Hello」

 彼女はいつものようにイギリス英語で言うと、にいっ、と笑った。上の前歯が四本、すっぽり抜け落ちている。見た目はちょっと怖いけど、悪い人じゃなさそうだ。

「ハロー」

 と、日本語なまりの英語で返した。彼女は、深々と煙を吸った。吐くときだけわずかに眉を寄せ、目を閉じて顔を上げる。そして吸うときはまた下を向く。それが、彼女の吸い方だった。


 わたしの車は、向かいに建つグロッセリーストアの裏の駐車場に停めてある。人目を避けるようにして店と店との間を通り抜けると、駐車場が現れた。


「大丈夫だと思うけど、車に乗る時は気をつけてね」

 どういうわけか、いつもはすっかり忘れ切っているイーサンの言葉が思い出された。

「ここはオランダだし。軍の近くでもないし。でも、念のため」

 気を付ける、とか、念のため、とか、なにをぼんやりしたことを言っているんだろう。「何」を「どう」気を付けるのかもわからないのに、対処のしようもない。……なんて思っていたけれど、今になって、急にクリスティの言葉がよみがえる。


 彼女は言わなかったか?

 車は外に停めている。爆弾を仕掛けられているかもしれない、と。


 オランダのライセンスプレートは当時、日本の軽自動車のような黄色いプレートだった。イーサンの職場はドイツだったので、白地に青いラインの入った、ドイツのプレートに見せかけたアメリカプレートだった。それは軍人専用で、みんなに「この車はアメリカ軍人とその家族のものです」と宣伝しているようなものだった。


 わたしの車は、八十五年製のフォルクスワーゲンのセダン。リモコンなどなかった。今までは冗談めかして、イーサンが、

「ほら、なんか、よくあるだろ? エンジンかけたとたんに爆発する、とかさ」

 そんな風に言うのを冷めた目で見ていた。


 バッカじゃないの。


 この近辺で車の爆発なんか起こったことない。ライフル持った見回りの人もいないし、第一、今までだっていつも大丈夫だったじゃない。


 なのに今日に限っては、恐怖に心臓が音を立てる。鍵を持った指から熱が奪われて行く。


 ばくん、ばくん。


 全身を駆け抜けるひりひりとした焦り。手のひらににじむ冷たい汗。


 考えすぎ。考え過ぎだって。


 自分に言い聞かせ、シルバーの車体に近づき、中をのぞきこむ。変わった様子はない。鍵穴にキーをつっこむ。目を閉じて、息を止めてひねる。


 クリッ。


 体が跳ね上がった。……ただ、鍵が開いただけなのに。


 ほおっと息を吐く。がくがくと震える膝をおさえ、ドアを開く。その指も、すでに冷たくなっていた。


 だから、大丈夫だってば。


 自分に言い聞かせ、ぎこちない動きで運転席に座る。キーをエンジンの鍵穴に差す。


 ばくん、ばくん。


 いつもやってることなのに、今日に限っては息が苦しくなって何度も深呼吸した。ブレーキを踏みこみながら、「もしかしたら、遺書を用意するべきだったのかも」という考えが脳裏をよぎる。


 ばくん、ばくん。


 でも、うちは毒親だった。あれだけ嫌な思いをさせられて、こんな時だけ「育ててくれてありがとう」とか「先に死んでごめんなさい」なんて書き残す気なんて起こらない。まして、貯金も金目のものもない。


 ちらっとイーサンの笑顔が脳裏をよぎった。


 こういうときぐらい、家にいてほしかったのに。好きだった、とか、結婚生活楽しかった、という思いよりも、新婚早々こんなところに置き去りにされて、出張ばかり行っているイーサンには、うらみに近い感情しかない。


 それに気づいたら、妙に落ち着いた。


 ここで死んでも、まあ、いいか。


 それでも心臓のバクバクは止まらない。息を整え、震える指に力をこめる。ブレーキを踏むつま先に冷たい汗がにじむ。震える膝をおさえ、目を閉じた。


 その瞬間、思った。


 それでもやっぱり、死ぬのは怖いんだよ!


 息を止めたまま、思い切ってキーを回した。


 ぶおん。


 体に伝わる小刻みの振動。


 オレンジ色の炎、真っ黒な煙。吹き飛ばされる人々。


 一瞬、そんな光景が脳裏をかすめた。


 振動に包まれながら、恐る恐る目を開く。そこにあるのは、いつもの風景。買い物の荷物を車に運ぶ人。車から出る人。車に乗りこむ人。


 起動したエンジンがぶるぶると車体を動かす。いつもは酔ってしまいそうで嫌だと思うこの小さな動きさえ、今日に限ってはなぜか愛しい。


 まだ、死んでない。


 ほおっと、胸の底から大きな息をついた。何度も大きく息をし、こめかみに浮いた汗をぬぐった。


 全然心配なんかしてなかった。爆発なんか起こるはずないんだから。


 自分で自分を笑ってみる。


 でも、手にはびっしょり汗をかいていた。

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