第2話


 そして、現在。


「ヘイ、アユミ!」

 イーサンが、いきなりスマホの画面を目の前に突きだしてきた。ちょうど夕飯のハンバーグを裏返しているところだった。


 ちらりと画面を見る。なつかしい顔が目に飛びこんで来た。小柄な褐色の肌の女性。となりには、中年の白人男性が写っていた。星条旗をバックに、軍服姿でほほ笑んでいる。

「これ、エイミーとクリス?」

「クリスが准将になったらしい。あのときは少佐だったのにな」

  興奮を隠せないイーサンのとなりで、フライパンにふたをした。

 

 遠い昔に思いをはせる。


 あれは、夢だったのか。現実だったのか。

 ときどき自分がわからなくなる。




 記憶が確かならば、二十年ほど昔……そう、あの新婚旅行から帰って、半年後のことだ。

 

「アユミ、どうしよう!」

 こっちがまだ、「Hello」とも言っていないのに、焦った声が電話からひびいた。

「となりの人の荷物、預かっちゃったの!」

 エイミーだ。この人は、いつもそうだった。タイミングが悪い。いや、運が悪いのか。いや……人の話を聞いていないのだ。


「基地あてに、アメリカ軍人の家に爆発物を送る、という脅迫文が届いたらしい」


 つい五分前に、イーサンからこんな電話があったばかりだった。それも、出張先から。


 そもそも、イーサンは軍人ではない。医療機器関係の会社の一社員だ。なのに、出向という形でドイツのアメリカ人基地に勤務していた。そのイーサンでさえ、

「知らない人からの荷物は受け取らないように」

「となりの人の荷物を預かってくれ、と頼まれても、断るように」

 と、わざわざ知らせ来たのに「となりの人の荷物を預かった」のだから、まるで漫画だ。


 これだけ焦っているということは、知ってて預かったのだろう。それ以前に、なんで知ってて、わざわざ預かるのか。けれど、エイミーというのはそういう人だ。

「来て! とにかく来て!」

 と、一方的に電話を切った。強引でもある。


 大きなため息をついた。


 わたしは当時、ドイツとの国境近く、ドイツの基地へは車で片道二十分のところにある、オランダ南部の小さな町に住んでいた。セントラムという町の中心部、その目抜き通りのど真ん中にある築八十年のアパートメントの二階と三階部分を住居として使っていた。一階は住居兼、店舗になっていて、その時はブティックになっていた。


 とはいっても、中にはハンガーにかかった大量の洋服が置いてあるものの、いつも店の中は暗く、ショーウインドウにも何も飾られていなかった。ときおり一階に住んでいる体の大きな黒人女性が店内をうろついていたが、店が開いていたことは一度もなかった。


 行きたくない。


 大きな窓から外を見た。

 レンガ敷きの道路の中央に植えられた木はその枝を寒さに震わせていた。

 道行く人たちは分厚いコートに身を包み、足早に歩き去る。日が暮れる頃にはクリスマスの寄付を募る人たちが、ベルを鳴らしながら店先に立って讃美歌を歌う。


 なにもないときに見れば、平和そのものの風景だ。


 子供のころから大勢でつるむのが苦手だった。だから、生粋のアメリカ人の女性のほとんどがかなり排他的で、仲間だとみなさない相手はその場にいてもいないようにふるまうことは、わたしにとってはそれほど苦痛ではなかった。


 日本にいたときは、「グループの中に入れない子はいけない子」、的な思い込みに縛られていたけれど、ここでは、ボッチの人たちもふつうにいる。英語も得意じゃないし、別に仲良くしたいわけでもないから、同意を求めるときだけやけに親しい振りですり寄って来たり、悪口を言う時だけかまってくることも、さほど気にはならなかった。


 けど、知らなかった。


 彼らは、知らない人間に対しては冷たい。徹底的に冷たいのに、ひとたび仲間だと認識すると、一気に愛が深まる。四六時中一緒にいて、片時も離れない。そこに、人種は関係ない。ケンカをしても、翌日には何もなかったかのようにまた一緒にいる。

 一緒にいすぎてうんざりするのだろう。文句を言い出す時もある。でもそのときだって、必ず最初と最後には、「友達だから、好きなの。好きなんだけどね。彼女のことは心の底から尊敬してるし、愛してるの。だけどね」と、必ず付け加える。


 仲間か、そうでないか。あるのは、それだけだ。


 そしてうかつにもわたしは、ほかのアメリカ人よりも割とフレンドリーな軍人の奥さんたちと知り合いになってしまった。「新婚で、旦那は出張がちでいつも家を空けている。子供もいない」と知った親切な奥さんたちが、悲しくならないように、と、日を置かず声をかけてくれた。わたしは一人でも全然平気なのだけれど、断るのも悪いかと、日本人的な上っ面なノリの良さで誘われるがまま誘いに乗って、気がついたら一つのグループの一員となってしまっていた。


 フィリピノのエイミーとメキシカンのリズ、白人のキムとクリスティ、そしてわたし。


 祖国を遠く離れ、寂しさや心細さなんかもあったのだろう。毎日のように家飲みをし、みんなでランチに行き、エイミーの持っているカラオケで歌いまくった。


 楽しさが、苦痛に覆われそうになってきている。心の片隅で「また今日もかよ」「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。けど、グループの結束は絶対。病気や子供のことだと許してくれるけど、「行きたくない」という理由は通じない。ああでもない、こうでもない、と、言って、最後には行く羽目になる。


 今日はクリスティ、来るのかな。


 ぼんやりと思った。


 実際、当時はその結束が脅かされる事態が頻発していた。

 前週、キムがこっちにダンナを残し、子供を連れてアメリカに帰った。


 家が、放火されたのだ。


「それだけじゃない」

 キムは帰国前、震える声で言った。

「毎日のようにスクールバスを爆破するっていう電話が入ってるの。ライフル持った軍人がふたり、毎回バスに乗って子供たちを警護しているのよ。こんなのおかしい。普通じゃない! こんな危険なところに子供を置いておくことなんかできない!」


 当時、アメリカの大統領がテロリストを撲滅するために中東の国に戦争を仕掛ける、と、演説し、大きな問題になっていた。中東の国だけではなく、ヨーロッパも反対の意思を示していた。基地には嫌がらせの電話や脅迫が相次いでいた。その矢先の、アメリカ軍人の住宅に対する連続放火事件。たまたまキムの家がそのうちのひとつだった。そして、クリスティの家は、キムの家の一ブロック先にある。


 そのせいか最近、クリスティも顔を見せなくなった。

「怖くて家を出られないの」

 クリスティは、電話口で沈んだ声を出した。

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