第10話 欲しいものと長い夏

 紺の故郷、明町あかるちょうの「川のプール」は、小川の水をせきとめて造った水遊び場だ。


「ルミちゃんのおもらし癖、最近はどんどん良くなってきたんですよ」


 夏まっさかりの緑あふれる岸辺。

 女の子らしいよそおいの鈴明は嬉しそうに報告した。

 一ヶ月前にこちらに来て以来、新しくできたクラスメートたちといっしょによく泳いでいるのだという。子供らしく日に焼けていた。


「あと、とても生意気になってきました。わたしの言うことに平気で逆らうようになって手を焼いてます。ほんとはあんなに気分屋で屁理屈こねてお片づけぎらいな子だったなんて、もう!」


 ぷんと鈴明が頬をふくらませる。


「いいんじゃねーの生意気。元気に育ってんじゃん」


 ショートパンツ姿の紺がにやりと笑ってコメントした。

 山内くんも、彼女にほほえむ。ふたりは鈴明の様子を見るために明町に来たのだった。


「よかったね、河辺さん」


「はい!」


 明るい笑顔を鈴明は咲かせた。

 〈うそつきの子〉事件から一ヶ月以上が経過していた。

 けっきょく、河辺姉妹は姫路を離れて、児童福祉施設に入った。孤児や親元から離れざるをえない子供たちを保護するための場所だ。


 それが明町にある施設だったのは、偶然ではない。

 紺の実家が手回ししたのである。


「なにかあったらオレの実家に駆けこめ。十妙院の家はおぼえてるな?」


「はい。忘れられませ……忘れません」


 紺にうなずく鈴明の表情が少々複雑そうだ。


「……おぼえているのは家の場所だけでいいからな」紺が頬をひくつかせている。


「自業自得だよ紺。河辺さんは君を男の子だと思ってたんだもの、それが女の子になって出てきたらそりゃ忘れられないって」


「うるせー山内!」


 十妙院家に鈴明を連れ帰るなり、紺は母親の楓さんによって振袖を着せられたのである。真っ赤になって歯ぎしりする紺が座敷に現れると、鈴明は目を白黒させて口をぽかんと開けていた。

 そばで見ていた山内くんは、さもありなんと瞑目したものだ。


「あーくそ恥かいたっ! はいこの話題やめ、それで暮らしは何も問題ねーか?」


 やや強引に紺は話を戻した。


「はい、なにも……」


 言いさして鈴明が口ごもった。ほんの一瞬、かつての陰りが顔に出る。

 山内くんはぎょっとする。


「え。なにかあるの?」


「い、いえっ」


 鈴明はあわてて手をふった。


「なにも! なにも問題ないです。『四つ葉の家』のみなさんはとても良くしてくれてます。学校でも、仲良くなれた子がいますし。ルミちゃんは元気になっていきますし、姫路にいたころに比べたら毎日が楽しくて……この……ええと……このオサキさんともうまく付き合えるようになりました」


 鈴明はやや口ごもりながら川のプールを指さした。

 そこには、縦横無尽に水中を遊びまわっている獣がいる。

 ぽこりと水面に顔を出したそれは、もはや毛玉ではなく完全にカワウソそのものだった。


「めちゃくちゃ自由にやってんじゃん、オサキ。って、見えてんのかよ!?」


「は、はい。ごはんいつも先によそって、盃に入れたお酒をそなえてたら見えるようになったんです。なにか取ってこようとしたらすぐやめさせることができるようになりました」


「そ、それならよかった……」


 紺は冷や汗をかきそうな顔色である。山内くんは彼女のそばに立ってささやいた。


「ねえ。君があのとき人工呼吸したせいもあったりしない? これ」


「言うな。楓にばれたらオレ、松の枝から逆さ吊りにされる……」


 紺の吹く火を常人の体内に入れると、怪異を見る能力がそなわる。

 たいていは一時的にだが、“素質持ち”だと恒久的に見えるようになってしまうことがある。ほかならぬ山内くんがその例だった。そしていま、二例目が誕生したのかもしれない。


 こほんと咳払いして紺はたずねた。


「それならなんでさっき浮かない顔してたんだよ?」


「ほんとうになにもないんです。ただ」


 鈴明は目を伏せ、小さな声で言った。


「前の引っ越しのときも最初は良かったので……それが、すこし不安で」


 大きな鳥が上空を飛んだ。黙った一同の上にその影が落ちかかってよぎっていった。

 貧乏オサキとされていた、悪意を呼ぶ蟲のような呪詛はいったん散った。ただしあれはオサキを憑けた術の構造上、かならず寄ってくるものであり、完全に除去することは不可能なのだという。ほこりが積もっていくように、いずれまた毒性が強くなるだろう。それがどれだけ先かはわからない。百年はもつかもしれないし、数年でまた除く必要が出るかもしれなかった。


 しばらくの沈黙ののち山内くんは、川べりに近寄りながら口を開いた。

 遊ぶカワウソを見下ろす。


「河辺さん」


 かれの背後では、呼びかけられた鈴明が顔をあげる。


「僕は、ちょっと事情あって、おかしなものの影響を受けにくい体質なんだ。そっちの紺は知ってのとおりそういうものの対処に慣れてるし。

 だから、僕らは『貧乏オサキ』のせいで君を憎んだりすることはない」


 ざあっと川風が吹き、青葉のにおいが水面を渡ってきた。

 そのここちよい突風に目を細めつつ、山内くんは鈴明を安心させるために、揺るぎない態度で誓う。


「これからも君や春美ちゃんになにかあれば力になるし、ずっと君の友達でいるよ。

 君が望むかぎり最後まで」


 鈴明は「ありがとう……ございます」と虚をつかれたような声で言ったきり押し黙った。ただ今度の沈黙は、さっきよりも少し空気が軽いように山内くんには思えた。それからぽつぽつと、鈴明が言葉をふたたび継ぎ始めた。


「山内先輩。いっぱい、ありがとうございました。最初に助けてくださって、紺先輩に合わせてくださって。おふたりにはどうお礼すればいいかもわからないくらい、お世話になってしまいました」


「僕にはお礼なんかいらないよ。ほとんど紺にやってもらったから」


 言いながら、ふと山内くんは見上げる視線に気づいた。

 カワウソが岸辺へと泳ぎつき、かれめざして這い上がってきていた。

 なんだろ――と思いながら山内くんはしゃがみこんで手を出してみる。


 カワウソはのそのそと近寄ってくると後足で立ち上がり、山内くんの出した手の指先をきゅっとにぎった。


「わ」


 どこかの水族館で、カワウソと握手する出し物があった気がする。

 山内くんは一気にでれでれになった。


「見てよ紺、これ! わ、引っ張ろうとしてる、すっごく可愛いよ!」


「……おまえ……」


 紺の、なぜか呆然とした声が聞こえ、

 そして、いきなり駆け寄ってきた鈴明がカワウソをひったくるように抱き上げた。


「すみません! すみません、そういうつもりはありません!」


 伏せた表情は前髪で隠れているが、髪のすきまから見えた顔は真っ赤だった。

 山内くんの顔を見ず、彼女は脱兎のごとく川辺から駆け去っていった。


 わけがわからず目をしばたたき、山内くんはそこで、今度は紺に見つめられていることに気づいた。

 心なしかむっすーとして、ジト目気味。


「な、なに、紺」


「〈魔女先輩事件〉のときも思ったけどさ、おまえってさあ案外……いや、もういい。とにかくそのぼけっとしたツラやすぐおどおどしはじめる性格やそのくせさらっと格好つけるところが、たまにすっごくムカつく」


 なにがなんだかわからないがとても機嫌が悪い。触らぬ神になんとやらだ。山内くんは不器用に話題をそらした。


「ところで、そろそろ僕らもバス停に戻らないと帰るバスがなくなるよ。日に数本しかないんだし」


「そうだな帰るか……ぺっ」


 紺が道端に唾棄した。


がら悪い真似はやめなよ!」


「どうせオレは女の子らしくないもんね」


「言ってないだろそんなこと! 清麗女子としての仮面を少しでいいからかぶり直してよ」


「エセお嬢だもん。自然体でかわいげある振る舞いなんかできねーよどうせ」


 背後からぶちぶちと、謎のひがみと怨念が黒雲のようにただよってくる。

 これはあかん、と山内くんは閉口して歩きはじめた。

 バスに乗っても、紺はむっつりと押し黙ったままだった。


「紺……さん」


 となりの紺に話しかけてみたが、彼女は返事すらしない。窓枠に頬杖をついて外の風景を見ている。

 なんなんだよもう、と思ったときだった。


 きゅっと柔らかく、小指に巻きつく感触があった。


 山内くんは自分の右手を見る。

 紺が、自分の小指をからみつけてきている。


「こ、紺?」


 山内くんの焦った声に、紺はふりかえって言った。


「手をつないだりとか、そういうのは恥ずかしいからやだけどっ」


 少女は怒ったように眉をはねあげて、かれをにらみつけている。


「そういうのおまえがしたいなら、これくらい、なら……」


 じわじわ声がかぼそくなった。


「だから……カワウソなんかどうでもいいだろ!」


 彼女はまたふいと顔をそらし、頬杖をついた風景観賞の姿勢に戻った。小指をつないだまま、山内くんは口を開け閉めする。

 いまこそきちんと言わなければならない気がする。


(君に告白したわけじゃない)

(ほんとに誤解なんだってば)

(僕はべつに君のことを好きというわけじゃなくて……――)


 声が出せない。

 できたての果物の砂糖煮をのどに押しこまれたかのようだ。熱くて甘酸っぱく、呼吸が苦しい。

 また言えない、とはぷはぷ息を継ぎながら山内くんは思う。


 出会ったあの夏以来、かれは何度も誤解を解こうとしてきた。けれどどういうわけか言い出せずに今日まできてしまったのは、こういう状態になってしまうからだ。

 逃げたり、不意打ちのように踏みこんできたりと、紺はかれの間合いをことごとく外してくる。無意識にではあろうけれど。


 そのためあと一息のところで山内くんはいつもきちんと言えない。たまに会う紺とはよくわからないぐだぐだな関係のままだ。

 どう考えても筋が通っていないので、彼女と会ったあとは毎回、自己嫌悪におちいるのだが。


(ていうか)


 つないだ小指どうしを見る。

 バスで周りに座っていた女子高生の一団が、くすくす笑うのが耳に入ってきた。「なにあの子たち、かわいー」そんな声まで聞こえてきた。


 こっちのほうが普通に手をつなぐより恥ずかしい気がする。いや間違いなくそうだ。

 たぶん紺もそれに気づいたのだろう。肩をぷるぷる震わせている。耳たぶが夕焼け色だ。


 夏がなかなか終わらない。






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うそつきの子 山内くんの呪禁事件簿 二宮酒匂 @vidrofox

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