2話 帰宅


 自宅に着くと、父は僕をガレージの前で下ろし、そのまま会社へと向かって行った。今から向かっても定時には少し早く着くだろうが、出世すると部下よりも早く出社したくなると、いつだったかに言っていた気がする。


 手入れの行き届いた庭を通り、エントランスへと向かう。久々に見る松の木や青銅の鶴の置物にも、僅かながら心を動かされる。庭師を雇って定期的に来て貰っているのだからこの庭のクオリティは高いのは間違いないのだが、どうしても真治の家や優子の家には見劣りしてしまう。どうせ三家の家の庭には勝てないのに、どうして外様の家が張り合うように金をかけているのか、昔の僕には理解できなかった。


 それでも、今は自宅の庭を良いものだと思えるようになったのだ。自分の感性が育ったのか、大人になって他者と比較して評価を下すことを止めたのかは分からないが。


 玄関の鍵を開けて中に入ると、白髪交じりの母がバタバタと走ってくる。


「……ただいまー」


「お帰りなさい。インターホン鳴らしてくれれば良かったのに。お父さんは?」


「会社行ったよ。それより、お腹空いた。何か食べるものある?」


「朝ご飯、用意してあるよ。お父さんの朝活に付き合わされて、毎朝早めに作らさせられるの。どうせまたすぐに飽きるでしょうけど、あの人のブームにも困ったものよ」


 僕は「大変だね」と言いつつも、あの父親らしいと思う。優しく人格者である反面、視野が狭く自分が正しいと信じて疑わない。大企業の重役に出世するという社会的成功を収めたのは、この立派な家からも間違いないのだろうが、そのワンマン体制に付き合わされる母親や会社の部下のことを思うと、少しばかり哀れに思う。


 母親が朝食の準備をしにキッチンに引き上げていったので、僕は二階へと上がり自分の部屋へと向かう。


 扉を開くと、中は半年前に訪れたままの姿だった。清潔なシーツにほこりが見当たらない事から、きっと母が帰って来る僕の為に掃除しておいてくれたのだろう。閉じたガラス窓も磨いてくれたのか、曇りひとつない。


 若干の申し訳なさを感じつつ、持ち込んだ荷物を開いて並べる。とはいえ、数日分の着替えと充電器、あとは暇つぶしのゲーム機ぐらいしかないので大した量ではない。ほとんど空になっているクローゼットに着替えを押し込み、充電器をセットすれば荷解きは完了だ。


 携帯端末を取り出してさっそく充電器に接続する。充電が開始された事で画面が点灯し、表示されたロック画面で朝の七時を過ぎた事を知る。


 この時間なら迷惑ではないだろう。僕はSNSのチャットアプリを起動させ、チーム国蒔というグループを開く。安直かつダサい命名は健太によるものだが、だれも名前を変更しないため僕らはこのグループを使用し続けていた。


藍川英司あいかわえいじ、国蒔市へ帰還しました』


 僕のコメントにさっそく既読が三件付く。そして、優子が『おかえりー』と絵文字交じりにコメントを残し、風ちゃんが『久しぶり』と読み取れるスタンプを張り付ける。


 ほどなくして健太が『花金だし、さっそく今晩飲もうぜ』とコメントをしたことを皮切りに、話は盛り上がり、結局そのまま今夜の十九時に駅前の居酒屋集合という事になった。


 ああ、飲み会という言葉は何て甘美なのだろう。まだ大人に成り切れていない自分のような半端者にとって、まるで大人の世界を垣間見ているような非日常感を感じさせてくれる。


 優子の『それじゃあ、ミマ担当共有よろしくね』というコメントで、僕は手早くメールアプリを開き、美麻ちゃんへのメールをしたためる。彼女はSNSをやっていない為、集まりがあるときは最も付き合いの長い僕が連絡をする係りになっていた。


 メールを送信し、SNSのチャットアプリに切り替えて『送ったよ。続報を震えて待て』とメッセージを送る。ノリの良い優子と風ちゃんが、何かのマスコットキャラクターが震えているスタンプを張り、思わず口元が吊り上がる。


 果たして美麻ちゃんは来てくれるだろうか。七月の下旬には帰ると言っていたからもう国蒔には帰ってきていると思うが、彼女は予定が無くても平気で『気分が乗らないから止めとく』と言える人だ。もちろん、そのまま仲間にその返答を転送しては角が立つので、都度うまく改変して皆に伝えている。


 下の階から魚の焼ける良い匂いがして来た。朝食に焼き魚なんて、もはや代名詞ともいえる献立だが、朝から魚を焼くという行為は随分と手間で面倒だ。一人暮らしを始めてその事を実感しただけに、わざわざ帰って来た僕の為にとその手間をかけてくれる母には感謝できる。


 まだ東京に残っている健太が飲み会に参加できない事を嘆くコメントを連ねている。僕は彼を無視して、窓を閉めて下の階に降りようと部屋を後にした瞬間、妙な違和感に囚われる。


「……?」


 僕が部屋に来た時と出ていく時で、何かが変わっていたような気がした。大して気にするようなことでは無いが、あり得ない何かが起こっていたような……。


 いや、きっと勘違いだろう。夜行バスに乗っていたせいで、眠ったとはいえ体は疲れているのだ。朝食を取ったら、夜の飲み会に向けて少し仮眠を取ろう。


 母が呼ぶ声が聞こえる。僕は返事を大声で返事を返して、空腹を刺激する香りに釣られるように、ふらふらと階段を下って行った。

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