プロローグー2 テスト終わりの新宿某所にて


 居酒屋ばかりが入った雑居ビルのエレベーターで下に降りる。蛍光灯に照らされた出入り口に向かう通路は薄汚れており、どこか嫌な臭いもする。美麻ちゃんも来ると分かっていれば、もっとまともな所にすれば良かった。


 蛍光灯に照らされた通路の先に、彼女が居た。プリーツと言うのだろうか、両サイドがひらひらした白いワンピースを着た美麻ちゃんは僕の姿に気づき、黒く長い髪を揺らしながらゆっくりと近寄って来る。


 深窓の令嬢を思わせる美少女が、不釣り合いな雑居ビルのほの暗い廊下を歩む様は、なんだかホラー映画のワンシーンの様にも思えてしまう。彼女は昔、僅かに金色が入った特徴的な瞳が原因で、目を合わせれば魂を抜かれてしまうと苛められていた事も、その印象を助長させる。


「久しぶりね、エイジ君」


「半年ぶりぐらいかな。皆もう集まってるし、とりあえず上に行こうか」


 僕のエスコートでエレベーターに乗り込み、階層を選択する。下品な広告が張られた小部屋は、妙な音を立てながら重力を感じさせる速度で上昇する。


「随分おしゃれだね。どうしたの?」


「一応男の子たちと会うのだし、少しぐらいは普通の子の振りをしようと思って」


「普通の子はそんなに攻めた格好はしないけどね」


 いくら夏場といえども、礼装でも通用しそうなワンピースで新宿にやって来る女子大生など居ないだろう。やはり美麻の感性はどこか浮世離れしている。幸いな事は、彼女自身が自分は浮いた存在である自覚がある事だろうか。


「似合ってない?」


「いや、逆にその恰好が似合うのが普通じゃないと思うよ」


 扉が開いて、居酒屋へと戻る。半個室の席に近づくと、健太が歓声を上げた。


「美麻ちゃん凄い美人さん。まるで海外の探偵映画で殺されるお嬢様の役じゃん」


「ホラー映画の幽霊役じゃないのか?」


「二人とも物騒ね。髪を前に下ろして、テレビから這い出てみる?」


 美麻ちゃんの自虐的な冗談で、白いワンピースに黒髪でホラー映画をイメージした理由が腑に落ちた。


 健太が席の奥に行っていたので、手前の席に座り飲み物を回収する。向かいに美麻ちゃんが座り、僕はメニューを引き寄せる。


「何か食べる?」


「ううん。食事は済ませてきたから大丈夫。飲み物はビールにするわ」


 自分がまだ飲みなれないビールを頼む令嬢というギャップに、思わず笑いが込み上げる。彼女は容姿こそ令嬢そのものだが、父親は普通の会社員だし、もっと言えば僕のお父さんの部下のはずだ。彼女の事をお嬢様と呼ぶのなら、僕はお坊ちゃまに成ってしまう。


 店員がやって来て、ビールと追加のつまみを注文する。それにしても、食事を済ませてきたとは一体どういう了見なのだろう。遅れて来るぐらいなら、ここで済ませた方が効率的ではないだろうか。


「変わり無さそうだな」


 真治は新しい煙草に手を伸ばしながら言う。


「お正月には地元で会わなかったし、もう一年ぶりぐらいかしら。夏休みも実家には帰らないの?」


「たぶん一生帰らない。姉ちゃんに会ったらよろしく伝えておいてくれ」


「相変わらず冷たい奴だな! 上京するときにオヤジから勘当された俺でも、盆と正月には顔見せてるのによ」


「それ、勘当されてなくない?」


 真治は極度の実家嫌いで、大学に進学して一人暮らしを始めてから一度も帰省していない。いったい何が彼をそこまで頑なにさせているのか分からないが、それでも姉の事だけは心配しているらしい。

 

 程なくして注文したものが運ばれてきたので、皆でテスト終わりを祝う乾杯をする。美麻ちゃんとビールのジョッキという取り合わせは、やはり異質に感じる。


「それで、エイジ君はいつ頃帰るの?」


「八月に入ったらかな。バイトもあるから、お盆が明けたら戻ってくるけど。美麻ちゃんは?」


「私は七月の終わりに帰るわ。向こうに残ってる仲間もあわせて、また集まりましょう。ユウコとタイ君の話、聞きたいわ」


 名前の挙がった矢弓優子やゆみゆうこ橘大輝たちばなたいきもこの飲み会のメンバーと同じく幼なじみで、高校卒業後も地元に残っていた。大輝は地元の企業――僕や美麻ちゃんのお父さんと同じ黒士電気だ――に就職し、優子も実家から通える看護学校に進学した。


 優子が専門学校を卒業し、地元の病院への就職が決まると、二人は一緒に暮らし始めた。それが今年の四月で、七月の頭に籍を入れたと皆に報告の連絡があった。


「まさかあの二人が結婚とは驚いたよな」


「驚くも何も、高校時代から付き合ってたのは知ってただろ。一緒に暮らし始めた時点で、時間の問題だったろ」


「うーん……うまく結婚までしてくれたから助かったけど、もし破局してたら皆で集まるのが難しくなってたよね」


「ああ、それなら大丈夫だ。矢弓家は指原家に次ぐ名家だからな。あの家の一人娘に手を出した分家の男が逃げられる訳ないだろ」

 

「ひゃあ怖い。外様の長男で良かったぜ」


 僕らの故郷は閉鎖的な村社会が根強く、古くからある家には階級が定められていた。その中でも指原家、矢弓家、羽廣家は三家と呼ばれ、そのヒエラルキーの頂点に君臨している。逆に僕や健太、美麻ちゃんのように、外から引っ越してきた家族は外様と呼ばれ、町のコミュニティーからは一定の距離を置いている。


「やっぱり真治が実家に帰りたくないのって、家のしがらみとかあるからなの?」


 家庭の事情には深入りしても良いのか不安があり、今までは中々聞くことが出来なかったが、僕はアルコールの力を借りて尋ねる。


 真治は煙草を灰皿に押し付けながら、僕の方をちらりと見て答える。


「俺が家に帰らないのは、あの町が嫌いだからだよ」


「なんで?」


「好き勝手やってた自分の過去を思い出すから」


 僕は彼の答えに、共感はできずとも納得はした。金銭にも権力にも恵まれた家に生まれて、自分の思い通りにできる環境。外の世界を知った真治にとって、子供だけでなく大人までもが首を垂れる世界で、傍若無人に振る舞っていた過去は恥じるものなのかもしれない。


「別に俺は真治が好き勝手してたとは思わねえけどな。外様の家の俺たちとも仲良くしてたわけだし、んな家に帰らないほど気に病む事じゃねえだろ。つーか、今だって好き勝手言ってるんじゃねえのか?」


 健太のフォローには僕の言いたい事が詰まっていた。確かに誰もを上から見下すような態度を取っていた部分はあるかもしれないが、なんだかんだ言って仲間を思いやる、良いリーダーだったと思う。だからこそ、上京した今でも定期的に会っているのだし。それこそ態度の事を言うのなら、今だって十分上から目線だ。


「……ありがとう。今だに仲良くしてくれるお前らには、多少は感謝してるんだぜ。ただな、それでも――」


 真治は何かを言いかけて口を噤み、新しい煙草を取り出して火を点け、絞り出すような声で別の話を始める。


「なあ、今年はあの町に帰らずに、皆でバカンスに行かないか? 大学で知り合った親が金持ちのヤツが、離島の別荘を貸してくれるって言うんだ。プライベートビーチと露天風呂まである、個人が所有してるとは思えない所だ。地元に残ってる優子や大輝、風ちゃんも呼んでさ」


 風ちゃんは羽廣家の娘で、僕たちの二つ年下の後輩だ。よくよく考えてみると、町の権力者である三家の子供全員が外様の僕たちと仲が良かったというのは、町の歴史からしたら相当異質な事だろう。


 そんな事よりも、真治の柄にもない提案に面食らう。普段の真治は、そんなアクティブな遊びを進んで企画する人間ではない。ましてや、学生組ならばまだしも社会人として働いている仲間が来れない事は容易に想像できるはずだ。


 この提案をしなかった事を後悔したくないが為に言ってみた。悲痛な真治の表情から、そんな感情を予想してしまい、慌てて僕は首を振る。


「いや、実家には帰りたいし、お盆が過ぎたらバイトもあるから」


「俺も行きたいけど、音楽関係の活動もあるからなぁ」


「そうか……そうだよなぁ」


 真治が肩をすくめる。


「……過去から目を背けても、罪から逃れる事はできない」


 美麻ちゃんの声に真治はビクリと全身を震わせた。


「おい、何を言い出すんだ!?」


 健太が声を荒げる。美麻ちゃんはその独特な瞳で隣に座る真治を真っ直ぐに見据えるが、真治はその視線から目を逸らし、紫煙をくゆらせる。


「何が言いたいんだ?」


 指先を震わせながら、真治はやっとの事で口を開く。


「別に。私も予定があるから、行けないわ。せっかく誘ってもらったけれど、ごめんなさいね」

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