第35話:蒼天の霹靂

 蒼天の霹靂――素戔嗚スサノオの霊威。八岐大蛇を滅した神剣天羽々斬あめのはばきりの一閃が、朱雀大路を割って御所へと迫る。


 結界の境界たる羅城門は、紙一重で結界の効果が及ばない。全てを見越した、完璧な布陣とタイミング。


「くっ!!」


 『彩天』の片手間ではどうにもならない。高階二百五十年の歴史を以てしても、この僅かな時間では為す術がない。摂政も、一度死者の蘇生まで行ってしまった。これでは次の術式は間に合わないだろう。


 となると、平安京を守る手は一つ神裔しか残されていなかった。

 だが、それこそ上皇の狙い。


 ――これは神話の再現だ。


 素戔嗚と天照――『蒼天』と『神裔』。国津神と天津神――陽成院派と朱雀帝派。


 そして、天岩戸。主宰神アマテラスの死と再生。つまりこれは『神裔』無力化への布石である。


 師忠の口から、感嘆にも似た息が漏れた。


 ――まさか、そこまで……


 二百五十年の歴史を記憶する高階だけが知る、浄御原きよみはら帝の秘儀。『蒼天』の一閃は、陽成院がその核心の一歩手前まで独力で辿り着いたことを意味していた。

 そのことに、高階の族長である師忠だけが気付く。


「少し侮り過ぎましたかね?」


 師忠は落ち着いた口調で独り言つ。

 そして――


 ▼△▼


「これで四人、一丁上がりだッ!」


 師忠の指示を受けて動いていた海人たちは、ようやく満仲の従者を全て捕らえた。

 未だに詳しい説明は無いので、結局目的は分からずじまいである。だが、平安京防衛に向けて一歩前進したことは確かだ。


「あとは師忠さんたちが頑張ってくれたら……」


 そんな時である。


「――っ!!」


 突如全身を刺すような感覚が海人たちを襲う。禍々しく、そして膨大な神気。

 反射的に彼らは南の方角を向く。


「あれはっ!?」


 海人たちは、夕刻の空が青白く輝くのを見た。その直後のことである。青い光は収束し、平安京の空を割いた。そして、光条が真っ直ぐ朱雀大路に振り下ろされる。

 その延長線上にあるのは朱雀帝の御所、平安宮――つまり、ここだ。


 術式の知識なんてろくにない海人にも分かる。これは間違いなく、一閃ですべてを無に帰す神の御業。


 ――まさか!!


「蒼天!?」


 海人たちは目を剥く。

 分からない。何故だ。自分たちは最善を尽くしたはず。上皇の策を挫くため、最善を尽くして成し遂げたはず。なのに――


「そんな……」


 犬麻呂が力なく膝をついた。仁王丸も言葉を失って立ち尽くしている。そして、海人もそうだった。

 何故こうなったかは分からない。

 しかし、分かる。あれは、どうにもならない。あれは、人間如きがどうにか出来るものではない。


 ――ヤバい、ヤバいヤバいヤバいっ!!


 海人は迫りくる不可避の破壊に恐れ慄く。しかし、彼はこのまま座して死を待つほど潔い人間ではない。


「っ!!」


 ――考えろっ!!


 早まる鼓動を抑えて、いつも通りの思考パターンを再構築、空転しそうな脳のギヤを無理にかみ合わせ、打開策を探る。だが、


「ぁ……」


 海人は分かってしまった。

 今、あれを止められる人間はここにいない。そう思った根拠はない。だが、確信はある。妙に当たる直感が、今このときだけは恨めしかった。


 ――結局……


「最後に信じられるのは自分だけってことかよ……」


 この世界に飛ばされてまだ十日弱。しかし見舞われた災難は数知れず、今もこうして危機に瀕している。

 海人はまだ、この世界で一人歩き出来ていない。周りの人に頼りきりである。

 だが、今この瞬間頼れる他人はいない。頼れるのは自分だけだ。

 なら、考えるべきは――


 ――今の自分に何が……?


 海人は、開いた手のひらを眺める。

 思い出すのは、犬麻呂たちにつけてもらった稽古だ。といっても、結局海人は何も掴めていない。しかし、打開策があるとすればそこしかなかった。


 そして、彼は一つ思い出す。


 ――そうだ……


 師忠が挙げた一つの仮説。海人が術式を使えない原因かもしれない、神子の固有能力。


 ――権限……!


 しかし、まだ思い通りには使えない。そもそも彼には、自分にそんなものがあるなんていう自信すらない。

 だが、師忠はあると言った。なら、それを信じるしかない。海人が縋れる藁は、もうそれしか残されてはいなかった。

 気を抜くと真っ白になりそうな頭を何とか捻り、食らいつく。


 ――どうすれば使える? 一体、何が足りない!?


 そして、再び直感した。


 ――まさか、前の世界の記憶の中に……?


 しかし、その記憶には靄がかかって向こう側が見えない。足りないピースも見つかる気がしない。


 ――くそっ!!


 蒼天の一閃が迫る。ここまで海人が思考に費やした時間は、実際三秒もないだろう。だが、はっきりとした現実として迫りくる死を目前に、ゆっくりと流れる時の中で海人の思考は高速回転した。


 ――思い出せ、思い出せ、思い出せっ!!


 だが、やはり分からない。


 ――なんでっ! なんで思い出せない!!


 定命の存在に等しく訪れる結末。それが今、目の前にある。彼の頬を冷汗が伝った。


「……死ぬ……?」


 受け入れがたい現実。それが受け入れざるを得ない距離まで迫った時、彼の中で何かが切れた。


 ――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――


 本能としての拒絶、思考の放棄。

 そして――








































『何をそんなにパニクってんのさ?』


「……………………………………――え?」


 突如、脳内に響いた少女の声。

 知らない声だ。

 しかし、それにしてはあまりにも心地よく、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような懐かしい声。

 海人は思わず問いかけた。


「君は、一体……」


『そんなの今はどうでもいい! とにかく、今は目の前の問題に集中!』


「――っ!」


 彼女の言葉で、海人は我に返る。彼は一度頰をぱしりと叩くと、顔を上げて確かに前を見た。


「その通りだ……よし……俺は、一体どうすればいい?」


『とにかく、口に出してみなよ』


「口に?」


『そう。大事なのはイメージ。そして、言葉よ』


「言葉……」


 海人は目を閉じ、少女の言葉を反芻する。


 そうだ。権限を行使するのに、難しい術式や理論なんて必要ない。望む結果を強くイメージして、あとは神気が流れる感覚を掴む――ただ、それだけで良い。


 その感覚は、身に覚えがあるもので――


「なんだ、これだったのか」


 かすかに感じる神気の流れ。記憶の中に埋もれていたであろう、知っている感覚。


 感覚が掴めたら、必要なものはただ一つ。


 ――結果を……望む最善の結果を、確固たるイメージにっ!!


 迫る一閃。弾着間際。直撃すれば、御所もろとも海人たちは塵芥に帰す。だが、それは確定未来ではない。彼の「イメージ」次第で大きく変わる。


 ――師忠さんの話なら、契神術なんて方向性を与えられた神気の束でしかない。なら、一番簡単なのは……


 イメージする。ただ、ひたすらにイメージする。迫りくる膨大な神気の束が、ほどけて散っていく様を。


「よし……」


 海人は一つ息を吸う。

 そして彼は、『再臨』の神子は、遂にその口を開いた。


『――解けろ』


 静かな一言。轟音にかき消されてしまいそうな、何ということのない一言。

 しかし、その一言は確かな言霊を宿した。その波紋は世界法則に干渉し、確かな影響を及ぼす。


 弾着。眩い光が御所を覆う。


 しかし、海人たちに死は訪れない。眩い光は、何の破壊も齎さない。蒼天の一閃は海人の「一言」によって、「言葉通り」ただの光の粒へと解けた。


 かき消された一閃の余波が、一陣の風となって吹き抜ける。晴れ渡る空から、眩しい夕陽が海人を照らしていた。


「……やっ……た?」


 その夕陽が、視界に滲んで――


「神子さんッ!?」


 力が抜けて、ふらりと倒れ込むのを犬麻呂が支える。初めて権限を行使した海人は、沈むように意識を手放した。

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