第36話 前人未踏 ~さまよう勇者

 日本代表の発表当日、錠はある会社の面接を受けていた。

 最近になって、肩の力を抜くことを体が覚えた。リラックスすると表情もやわらかくなる。相手からはもとより、相手に対する印象も心なしかよく思えてくるから不思議だ。だが、手ごたえはあっても結果のほうは未だに芳しくない。やるべきことはやりきったが、この日も不安を抱きながらビルを出た。

 その帰りだった。最寄り駅から地下鉄に乗ったところで、竹内にばったり出くわした。

「おう……」

 久しぶりの二人はどこかぎこちない。錠の格好を見て竹内は意外そうな顔をした。

「就職活動か?」

「ああ」

 竹内は納得したように二度三度うなずいた。竹内もスーツだ。

 二人は横並びにつり革を握り、窓に映った互いを見ながら言葉を交わす。

「あのさ……、河野から電話あった」

「そうか。で、どうだった」

「すまないって。お前らから謝れって言われたって」

 錠なりに、その言葉に思いをのせた。

「そうか。大木が行こうって言い出してな」

「大木……、あいつ司法試験って」

「ああ、聞いたか。あいつ一年のときからずっと勉強してたらしい。俺も優ちゃん来るまで知らなかった」

「いろいろあったんだってな。でも、司法試験って最難関だろ」

「ああ。ただ、本人はもういいって言いはじめてな。就職するらしい」

 錠は思わず横を見た。

「なんで?」

「家族にこれ以上は心配かけたくないんだって」

「え、でも、それでいいのか?」

 とっさに出た錠の言葉に、竹内も即座に向き直る。

「だよな。お前もそう思うか?」

 竹内のリアクションに気後れしながらも、錠はうなずいた。

 そもそも大木のチャレンジは、大木が受験を棒に振ったその責任を抱える家族のために始めたはずだ。

「だったら錠、今から行こう。あいつのところへ」

 それから二人は前田に声をかけた。自らの希望で錠が電話をした。

「サンキューな、錠。サンキューな」

 前田は泣いて喜んだ。

「わかったよ、もういいよ。お前のせいじゃなかったよ。こっちこそ」

 三人は大木の下宿に向かった。

 大木の妹、優は二学期が始まり、地元に戻ってもういない。竹内が優に聞いた話では、家族は本人が望むなら気を使わずに夢を追って欲しいと言っているらしい。大学卒業後は独学になるが、下宿先は身内だ。さほど金はかからない。だが、大木は就職するの一点張りで誰の言葉にも耳を貸さないという。

 大木が世話になっている家は木造二階建てで、大木はそこの子供たちが自立して出たあとの部屋を使わせてもらっている。閑静な住宅地で勉強には申し分のない環境だ。

 大木の部屋を訪れるのは、錠たち三人にとっても初めてだった。

「どうした、お前ら」

 出迎えた大木はさすがに驚いたようだが、錠の姿が目にとまり軽く笑みを浮かべた。

 錠は玄関先で、大木を前に玲子の件をわびた。小さな声ながら、はっきりと言葉にした。

「俺が間違ってた。すまなかった」

 そう言ったあと、改めて前田、竹内を見た。二人はいつもの笑顔で応える。大木も納得の表情だ。

 畳の部屋に通され、三人と大木は円卓を囲んで座った。大木の背後にある本棚には司法関係の書籍がずらり並んでいる。

 しばらくとりとめもない話をしたあと、大木の向こうを見ながら前田が切り出した。

「それにしても、すごいタイトルの本ばかりだな」

「……ああ、ほとんどもらい物だ」

 ここまで控えめだった前田が、いつもの調子で話題を膨らませる。

「やっぱり、お前はすごいな。俺だったら逃げ出しちゃう」

 大木は静かにうつむいた。

「もういいんだよ。設楽産業に行くことに決めたんだ」

 すかさず竹内が問う。

「本気か? お前、無理してんじゃないだろうな」

 その口調は普段の大木に対するよりも強めだ。大木はいつもどおり冷静に答えた。

「相手は司法試験だ。いつまでかかるか、わからないからな。うちの大学からは前例がない。前人未到の領域だ。周りにこれ以上の負担はかけたくないんだ」

「それですむのか?」

 対面から食いつく竹内に、大木はかすかに笑みをつくって返した。

「自分さえ笑ってりゃ、それですむんだって」

「本当にそうか?」

「ああ」

 大木はもう一度、笑みを見せた。

 それを目に、錠はあの日の友近を思い出した。友近の母親が倒れた日、病院で無理に笑うあの顔を。そして、改めてそばの大木を見た。その顔から表情が次第に消えていく。

 竹内は譲らない大木を前に展開を変えた。

「じゃあ、自分のことはどうなんだ」

 あの竹内が、少し声を荒げた。

「お前、俺になんて言った? 他人のことばっかり気にして自分のことはどうなんだって言ったよな」

 大木は目を伏せた。竹内はたたみかけていく。

「お前こそ周りに気を使ってんじゃねえよ」

「別に……」

 二人を前に、錠はスーツの胸の隙間に顔をうずめるように下を向いた。

 竹内は以前に指摘されたことに対する腹いせで言っているのではない。きっとお返しなのだ。以前の錠ならそんなことにも気付かなかったろう。大木の言葉に触発され、竹内は今も就活を続けている。

 大木が言葉を見つけて話し出す。

「気を使ってるんじゃなくて、俺は家族が幸せならそれで満足なんだよ。俺のことはいいんだ」

 そう言うとまた笑った。

 大木の言っていることは、友近が母親に心配をかけたくない、だから笑ってなきゃならないという思いに似ている。しかし、錠は友近の笑顔をもう一度思い浮かべ、大木と重ねた。わずかだが、それでいて確実にずれている。

 会話を避けるようにうつむいた大木を前に、竹内は引かずに突いていった。

「じゃあ、今までやってきたことはなんだったんだ。一般企業なんて、お前はそんなレベルに収まる男じゃない。優ちゃんに聞いたぞ。一年くらい前に高校の同窓会の案内状がきたんだろ。そのとき、幹事が一流大に行った同級生だったのを見て、お前は不参加に丸をつけながら言ったんだってな。このまま終わってたまるかって」

 大木は無言だ。動かない。

「それを聞いて優ちゃん、思ったって。お前が優ちゃんや家族のために無理して勉強してるんじゃないかって思うこともあったけど、そうじゃなかったって……、自分のためにやってるってわかってよかったって。そう言ってたぞ」

 竹内はじっと大木を見やり、ここで直球を放り込んだ。

「いつか振り返ったとき、後悔して家族を恨んだりしないか」

「あるわけない」

 大木はあえて強めに言った。

 きっと大木の家族を思う気持ちは本当だろう。だが、この状況に錠の中で違和感が膨らんでいく。

 友近は大事な者の笑顔のために、そして同じように一文字も大事な者の思いを抱いて前を向く。どちらも、傷つき苦しみながらも、いまだ前へ進もうとしている。

 体が思うようについてこなくても、足が限界にきてもあきらめない。なぜか?

 ひとり思案する錠をよそに、竹内が言った。

「お前が今、夢を捨てたら優ちゃんはどうなる? 幸せだと思うか? それでお前は幸せなのか?」

 大木はかすかに肩を震わせた。

 それに呼応するように、錠はピクと眉を動かした。

 そうだ。友近が投げ出さないのは、ゴールは決まっているからだ。ゴールは一つしかない。だからあきらめるわけにはいかないのだ。

 皆一人じゃないからこそ、大事なものを背負っている。

 きっと自分もそうだった。

 友近や以前の大木がずっと向き合ってきたものから、ついこの間まで何かのせいにして逃げていた。それでも逃げられなかった。逃げられないからこそ、つらかったのだ。

 己の壁に閉じこもり光を見失っていた錠を闇から救い出してくれたのは、友近ら代表の面々、そして目の前の友人たちだ。

 大木のチャレンジを聞いて錠は力をもらった。大木家のために戦う姿は友近と変わらなかったはずだ。しかし今、目の前の勇者は暗闇で迷っている。今なら、自分にも何か役割があるような気がした。

「お前も……」

 うつむき黙っていた錠が口を開いた。

「お前も、逃げてるんじゃないのか?」

 三人の視線が錠に集まる。

「わかってたはずだ。逃げられないこと。家族を思うなら……」

 錠は顔を上げ、大木を見た。

「おまえが本当の意味で幸せにならなきゃ、幸せにできない。おまえの幸せが家族の願いだから」

 大木は錠を見ることができずに、また目を伏せた。

「お前の本当の幸せはなんだ」

 錠は自分にも問いかけた。

「お前は俺に勇気を与えてくれたじゃないか」

 そんなセリフ、似合う男じゃないのはわかっている。でも伝えなきゃならない相手だと思った。今の竹内がそうであるように、そして大木がそうしてくれていたように。

「俺は就職活動をやり抜き内定を勝ち取る。そして日本がいまだかつて出たことのないワールドカップを目指す。だからお前も前人未到を目指せ」

 錠を中心に時が止まった。おのおの目を閉じる。が、やがて、

「ふ、ふははは」

 大木は下を向いたまま笑い出した。つられるように、竹内も、前田も。

「お前、誰だよ。錠じゃないな」

「いや、錠だよ。ワールドカップって言ったもん」

「なら、流本の錠じゃなくて虹をかける男のジョーか」

「まだいたんだ。どこ行ってたんだよ」

「おかえりなさい、救世主」

 前田はおどけて爆笑した。

「いや、それはお前らだ。大木は俺にとって勇者なんだ」

 自分でも不思議なくらい熱い言葉がこぼれて出る。錠は真顔で三人を見た。前田は一人笑い転げている。

「竹内は癒しの賢者。こいつは……素早いだけの盗賊」

 前田はさておき、他の二人は素に戻った。

 大木はしばし思案していたが、やがていつものクールな笑みを浮かべ、深くうなずいた。

 それを目にした錠は、これまで見せたことのない笑顔をこぼした。


 錠はその後も就職活動を続けた。じきに、竹内には意中の企業から内定が出た。

 この時期、採用活動をしている企業はそれほど多くない。それでも錠は、可能性を求めて動き続けた。

 やはりどこの採用担当者もあのジョーだとわかっている。サッカーの話題を振る企業もあれば、家族のことについて尋ねられたりもする。それが好奇からなのか、採用に関わる項目だからなのか、判断はしかねた。だが、相手の意図がわからなければむやみに敵視などすべきではない。そう自分に言い聞かせ、錠はただひたすら誠意を見せることに努めた。

 自分の感情以上に、大事なものが今はあった。

 一方、就活は一人だが、夜のトレーニングは一人ではなかった。カルロスは代表合宿のため、もう錠についてはいられない。カルロスに代わって錠をサポートしたのは、竹内と前田だった。サッカー歴の長い竹内が錠とボールを蹴り合い、前田は球出しや球拾い、ときにはフリーキックの壁役まで行った。

 トレーニング中のおしゃべりは控えているが、ひととおりのメニューがすむと、前田はすぐにへたり込み、待ってましたとばかりに口を開いた。

「しかし、近くで見るとレインボーってやばいな。さすが、錠のへそ曲がりの象徴だな」

 錠と竹内はクールダウンのためにしばらくボールを蹴り合いながら聞いていた。今日も始まった前田節に錠は顔を背けたが、口元は緩めだ。

「それにしても、相変わらずお前らはお人よしのおせっかいだな」

 白い歯を見せて言葉を返した。

「いや、竹内はほんと世話好きの気遣い人間だよな。いつからそんなんだよ」

 前田は大声で竹内に振った。竹内は練習中もそのあとも、錠の足の状態をいつも気にして声をかけている。

 竹内は真顔でトラップすると、いったんボールを止めて話しはじめた。

「俺さ、高校時代、部活じゃ控えだったんだ。途中でレギュラーはずされて、そのあとはベンチにも入れなかった」

 竹内は、錠からすると結構うまいほうだ。出身校は名門の部類に入る。

「いつかチャンスがまわってくると思って練習も雑務も精一杯やってたんだんだけど、なかなかうまくいかなくて。でもそのうち、マネージャーでもないのにレギュラーのサポートしてたら、皆喜んでくれてさ。なんか認められた気がして、それが嬉しくて……」

「それで竹内は世話好きなんだな」

 無言の錠に対し、前田はいつもどおり合いの手を入れる。

「でも、そのときは自分でもよくわからなかったんだけど、どこかでそれでいいのかって思ってた。何か違うって。引退しても、ずっとモヤモヤしてた」

「そういや、竹内って入学したころ、ちょっと突っ張ってたよな」

 その点は錠も思い当たる。

「自分が偽善者にも思えて、どこかうしろめたかったからかもな。でも大学に入ってからも、何かするたびにお前らが喜んでくれるのが嬉しくてさ。俺、間違ってないじゃんって思った」

 竹内はボールを足裏でこねながら言った。

「だけど、いつの間にかそれで満足してた。高校時代のサッカーだってやりきってなかった。まだやれたのに。それを大木は気付かせてくれた。他人の世話するふりして自分から逃げてるって」

 そう言いながら、錠に強めのボールを蹴り返した。錠は慌てながらもそれを難なく足元に収めた。

「ひょっとしてさあ、大木、あいつ自分に向かって言ってたんじゃない?」

 前田が二人の蹴り合いを見ながら、ふざけるでもなく言った。

「けどさ、俺は助かったぜ。竹内のおかげでいろいろと。マジでさ」

 錠はあさってのほうを見ながらそう言った。すぐに前田が食いつく。

「おい、俺のおかげは?」

 錠は無言でボールをトラップし、そして蹴った。

「また無視か。お前はそれを直せっ」

 そのやりとりに、竹内はちゃんと大笑いで応える。

「ほら、竹内を見習えって。なんでもいいからもらって帰って、ちゃんと煎じて飲め」

「っていうか、竹内はそもそも根がまじめなんだよ」

 錠も笑顔を見せて、そう返した。

「ところで錠、予選でアウェーに行ったら土産忘れんな」

 前田が気の早い話を始めた。

「土産? 何か欲しいものあるのか?」

「えーと、ちなみにどこ行くんだっけ?」

 錠もピンと来ない。竹内が思い出しながら答える。

「UAEとか、ウズベキスタンとかじゃない?」

「UAE? ウズベキスタン? 特産品って何だっけ?」

「さあ?」

 竹内も首をひねった。

「じゃあ今回はいいから、来年、フランス土産だ」

「おお、いいね。それだ、錠」

「ああ、わかった。フランスパン買って帰ってやる」

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