第35話 不安

 錠はトレーニングと並行して再び就職活動を始めた。

 汚名を返上せぬまま動いても無理だと思っていた。だが、居ても立ってもいられなくなった。まだ募集をしている、採用の可能性のあるところに選り好みせず出かけていった。

 ほとんどが、何らかの事情で網にかからなかった優秀な学生を求めての二次募集だ。それだけに選考は厳しい。

 ジョーを見る目もシビアだった。愛想よく応対はしてくれるが、知名度だけではどうにもならない。なにより錠はミスのレッテルを貼られている。それでも錠は腐らずに前だけを見た。

 姉とは以前よりも連絡を取り合うようになった。ただ、会話はどこかよそよそしい。とはいえ、ぎこちなくても、ぎくしゃくではない。双方、相手を気遣いながら話すようになった。また屈託なくしゃべれるようになる日はそう遠くはない、どちらもそう感じていた。

 夏休みも終わり、大学の後期が始まった。

 講義には積極的に出た。休むのは面接に出かけるときぐらいだ。友人たちと共通の講義にも出席した。どんなふうに会えばいいのか戸惑いはあったが、どこかで期待もしていた。しかし、逆に彼らの姿をキャンパスで見ることはなかった。

 どんなに疲れていても、夜のトレーニングは欠かさなかった。カルロスのいない日でも、与えられたメニューを黙々とこなした。

 日々、トレーニングに出るたびに、己の進歩に不安と苛立ちはつきまとう。

 だが、一人で走っていても、独りじゃない。

 どこかで誰か見ている。見守られている。そんな気がした。

 きっと今までだってそうだったはずだ。だが、受け入れる土壌がなかった。

 壁が崩れ去った世界に外気が吹き込み、溢れんばかりの光が差し込んだ。乾いた地が割れ、水がわき出した。荒地にまかれていた種は、光と水とに恵まれてようやく芽を出した。いまや、芽はなにひとつ無駄にしてはならぬとばかりに全てを吸収し、力に変えていった。

 開かれた外の景色はさらなる刺激を運び、成長を促した。

 立ち止まって休みたくなったとき、ふと浮かんでくるものがある。ときにはサポーターたちの声が耳の奥で聞こえ、またときには岡屋や中羽の姿が目の前をよぎる。そのたびに、錠はもう一歩を踏み出した。

「見てろ、あいつら。ぎゃふんと言わせてやるからな」


 いよいよ最終予選の、その初戦の代表が発表になる前日、この日も錠はカルロスとともに夜のグラウンドにいた。ひととおりメニューを終えると、カルロスはへたり込む錠のそばに座った。カルロスは、翌日から合宿の準備で顔を出せなくなる。

「錠、うれしいよ。こんなに頑張ってくれて」

「……カルロスこそ」

 錠はがむしゃらにカルロスについてきた。その成果は確実にでていた。しかし、大きな故障はなかったものの、体調は万全というわけではなかった。もちろんカルロスは無理のないメニューを組んでいるのだが、それでも体のどこも傷めずにいられるはずもない。

 今最も不安を抱えている個所は膝だ。数日前、カルロスのいない日のことだ。ボールを蹴った瞬間、錠は不意に膝の痛みを感じた。

 厳しいトレーニングですでにあちこち痛い。かまわずに、再びボールを蹴った。

「ぐあっ」

 激痛が走った。錠はその場に手をついた。

「や、やばい、やっちまった」

 翌日、すぐにカルロスのチェックを受けた。

「どうだ?」

「いや、大丈夫、昨日みたいな痛みはない」

 どうやら大事には至らなかったようだ。

「でも、今日は休もう」

 錠はカルロスの言葉に従ったが、故障以上に己の進歩に不安が募った。練習できない焦り、そんなものもあるのか、そう思った。せっかくやる気になったのに、そんな恨み節が浮かびもした。

「焦るな、錠。ユキヤやテツさんもおんなじだ。皆戦っている」

 カルロスはそう言って錠をなだめた。その言葉に、錠は彼らとそして己の言動を思い出し、苦い顔をした。

 それからしばらくは、心身ともに爆弾を抱えながらのトレーニングとなった。

 徐々に通常の練習メニューに戻していってはいるが、明日からカルロスはいない。ほぼ一人でのトレーニングになる。

 錠の不安を感じとったか、カルロスは明るい顔をつくって、錠に言葉をかけた。

「でも錠には驚いたよ、ほんとに。これだけの期間でまさかここまでになるとは思ってなかった。もともと体力的には、いいものを持ってたんだろう」

 それを聞いた錠は笑みをこぼし、

「田舎の学校は遠くてね。毎日結構な距離を通ってたんだ。だからだろ」

 そうはにかんだ。

「あいつらにも追いついたかな」

 錠の言わんとする相手を察して、カルロスは苦笑した。

「さすがにそれはどうかな。彼らはプロだからね」

 それはそうだ。相手は一日中、それも何年も前から錠以上のことを積み重ねている。特にテクニックについては、やればやるほどに埋まらぬ差を感じてもどかしい。

 カルロスはまだ錠を代表に選ぶつもりはなかった。就活やケガのこともあるが、錠が本当の意味で自信を持って臨める状態になるまで、待つことを決めていた。そして、その判断は錠にゆだねた。

 錠は、思いに報いなければという一心で己を鼓舞し、なんとかここまでやってきた。内定が出たらすぐにでもという思いで取り組んできた。が、故障を抱えている今、明日からは一人だと思うと、やはり不安にかられてしまう。

 予選に臨むには、体調だけでなく強靭なメンタルが必要だ。それを理解している今の錠は、これから始まる最終予選を前に、まだ自分は代表に必要ない、まだふさわしくもない、そう思った。

 ただ、気ががりなのは友近の状態だ。代表チームにとっても、ユキヤの復帰はまだという状況下、友近が戦力にならないとなると攻撃力の低下は避けられない。

「あれから友近は……」

「ああ、相変わらずだ」

 錠は表情を曇らせた。

「テツさんは代表には選ばないほうがいいって」

「あのときのこと、自分は後悔してるから? だから友近には」

 錠は先日聞いた一文字の母親の話から推測した。

「いや、そうじゃない」

 背後で野太い声がした。

「あ、テツさん、どうしてここに?」

 一文字はカルロスの問いかけを流した。

「万全の状態で使わないと日本のためにならない。今のトモは気持ちばかりで体がついてこない」

 確かに、心身が伴わないとあの舞台に立つのは難しい。それにも増して、錠はワールドカップを勝ち取ることに徹する一文字の覚悟を垣間見た気がした。

「非情だと思うか?」

 一文字は二人を見ずに尋ねた。どちらからも答えはない。

「俺は自分の目標のために、この四年間全てを懸けてきた。そのためにはどんなことでも受け入れ、言いたくないことも言ってきた」

 錠は一文字の横顔を見上げた。

「聞いたよ、お袋さんのこと。俺……」

 一文字は前を向いたまま、目を閉じた。そして、しばしの沈黙ののち、心の奥を口にした。

「俺は自分をごまかしてるのかもしれない。そばにいなかったことを言い訳して、都合のいい解釈をしているのかもしれない。自分の夢をかなえれば、お袋はきっと喜ぶって、会えなくてもそう望んでるってな」

 カルロスは無言で首を振った。

「だが、そう思うより他に、俺に何ができる」

 一文字の思いを耳に、錠は遠く夜空に目をやった。

「トモは見た目より強いやつだ。お袋がいなくなったとき、あいつも相当泣いてたが、俺がへこんでる姿やそれを心配している母親を見て、自分が明るい顔をしてなきゃいけないと思ったんだろう。あのとき、俺はあいつの笑顔に救われた。そのトモが今はあんな状態だ」

 そう言って、一文字は前を見据えた。

「あいつは、トモは俺がワールドカップに連れていく。だから戦力にならないなら今は母親のそばにいさせてやりたい」

 決定権はカルロスにある。それは一文字も承知だ。

「テツさんの思いはわかった……」

「練習中に悪かったな」

 そう言って一文字は歩き出した。その足を目で追いながら錠が言葉をかける。

「そんなこと言ったって、その足……、あんたの足だって相当やばいんだろ」

 一文字は立ち止まり、振り返らずに答えた。

「だから、代わりになる戦力が必要だ」

 その背は再び動きはじめ、錠は何も言えずに見送った。

 そのあと、カルロスは錠の前で思いをこぼした。

「正直なところ決めかねてる。トモは望んで予選に出たいと言っている。すべてはコンディション次第だ。僕だってトモの力が必要だ。だからもう一度合宿で見てからにしようと思う」

 それを聞きながら、錠は複雑な面持ちで足のストレッチを丹念に始めた。

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