幕間 わすれもの

 義信に急かされ、秀吉は信長の本拠地である岐阜城下を目指していた。


 武田家が本拠地を移転するにあたって、家臣は妻子を城下に住まわせるよう厳命された。


 もちろんこれは秀吉も例外ではないため、妻を連れてくるべく、秀吉は密かに岐阜城下を訪れていた。


 自宅を見つけると、秀吉はこっそり中を覗う。


「寧々は……まだおらぬようじゃな」


 ふぅ、と秀吉が息をつく。


 義信の命令とはいえ、寧々と会うのは怖かった。


 敵に寝返ったなどと知られては、どれだけ怒られるかわかったものではない。


(まあ、遅かれ早かれバレるのじゃが……)


 自宅に戻るべきか、外で待っているべきか。


 その場をうろうろ彷徨っていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「お前様!」


「寧々……」


 寧々が駆け寄ると、秀吉に抱きついた。


 秀吉のことが余程心配だったのか、目尻には涙が浮かんでいる。


「心配したんですよ! 戦から帰ってこないから、お前様が死んだんじゃないかって……」


 秀吉の胸に顔を埋め、えづく寧々。


 いたたまれなさを感じながら、寧々を優しく引き剥がした。


「寧々、お前に話しておきたいことがある」


「お話、ですか?」


 秀吉の雰囲気から悪い想像をしたのか、寧々の顔色が曇っていく。


「実はな──」






 岡崎に戻った秀吉を見て、曽根虎盛がギョッとした。


「木下殿、その顔は……」


「ああ、家内にやられたのだ。『大恩ある殿を裏切るなんて』と……」


 秀吉が顔をさする。


 顔中に残る生傷が、見ていてなんとも痛々しい。


「それは災難でしたなあ……」


 曽根虎盛が憐憫の目で秀吉を見る。


「そういえば、聞きましたか。三河中の城を改築していることを……」


「なに!?」


 義信は新たな拠点を三河に定めたとはいえ、目と鼻の先に織田の領地がある状況だ。


 当然、三河を攻め落とされれば武田家の政務が麻痺してしまい、家臣の家族も避難を余儀なくされることだろう。


 そのため、三河の維持は武田家にとって死活問題となっていた。


「そこで三河中の城を増改築することにしたのだ。来たる織田の侵攻に備えて……」


「そういうことじゃったか……」


 秀吉がうんうんと頷く。


 と、そこで秀吉はあることに気がついた。


「……しかし、今は家臣の屋敷も造らせていたはず……。こうなっては、改築しようにも人手が足りぬのではないか?」


「それよ。改築を始めたとはいえ、そこまで手の回る者は限られておる。……つまり、今改築を願い出でれば、殿の覚えもめでたくなるというわけだ」


 聞けば、既に飯富虎昌や高坂昌信ほか、真田昌幸も改築を願い出でているという。


(これはうかうかしていられぬな……)


 築城は秀吉も得意とするところだ。


 取れる手柄は積極的に狙っていきたい。


 ……と、そこまで考えて自分が大事なことを忘れていることに気がついた。


「おや、木下殿。どちらへ?」


「はは、ちと忘れを取りに……」


 秀吉は愛想笑いで誤魔化してその場を去る。


 彼らを連れて行っては、自分の寝返りは決定的となるだろう。


 しかし、遅かれ早かれ寝返りはバレるのだ。


 それならば、自分の家臣もついでに持ってきた方がいいに決まっている。


(待ってろよ……半兵衛、小六!)


 こうして、秀吉は再び美濃に向かうのだった。

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