第40話 義信と謙信 前編

 織田軍が完全に美濃に撤退すると、義信も追撃を切り上げた。


 飛騨の防衛には成功したとはいえ、あまりに兵の損耗が激しく、国衆たちの不満も高まっていた。


 そこで、義信は一度軍を引き上げ、飛騨の統治には飯富昌景を残すこととした。


「昌景、お主を松倉城主に命ずる。これよりは織田の手から飛騨を守り、美濃に攻め入る際は先鋒となってもらおう」


「はっ、しかと承りましてございます!」





 織田が美濃に引き上げると、武田織田両者の疲弊が大きいこともあり、講和交渉が始まった。


 朝廷を味方につけた織田が武田との和睦を模索する中、義信は上杉謙信と対峙していた。


「此度の援軍、まことにかたじけない。上杉殿がいらしてくださったおかげで、無事に公方様の御身をお守りすることが叶い申した」


「これくらい造作も無いこと……。公方様にご無礼を働かんとする者は、この我が相手となるまでよ」


「頼もしき限りだ」


 援軍に来た上杉軍は5000。今の武田に上杉軍を退けるだけの余力はない。


 すぐにでも越後に引き返してもらいたいのだが、相手が相手だ。


 どうにか穏便に帰ってもらう他ないだろう。


「礼といってはなんだが、こちらの太刀を用意した。……受け取ってくれ」


 義信が太刀を差し出すも、上杉謙信は受け取ろうとしない。


 ……やはり、この程度では足りなかったか。


「……もちろん、甲斐に戻った折に改めて礼をいたすつもり──」


「要らぬ」


 なおも義信の礼を断ると、上杉家臣たちが困惑の色を見せた。


 主の好意を無碍むげにされ、飯富虎昌をはじめ、武田家臣たちが殺気立つ。


「いらぬ、とは……」


「我は公方様の求めに応じて軍を興したまでのこと。……どうして武田から礼を受け取る謂れがある」


「しかし、上杉殿が軍を送ってくださったおかげで我らが助かったのも事実……。私にも面子というものがある。……義には義を。礼には礼をもって返すのが筋というもの……」


 そこまで言われて受け取らないのは角が立つ。


 謙信が渋々といった様子で太刀を受け取った。


 その場に張り詰めていた緊張感が徐々に弛緩していく。


「……では、我らは越後に引き上げる」


 謙信が義信に背を向けると、家臣たちに命令を出した。


「公方様をお連れせよ」


「なっ……!」


「お待ちください!」


 勝手に足利義昭の身柄を確保しようとする謙信に、長坂昌国や曽根虎盛が止めに入った。


「先に公方様をお迎えに上がったのは我らですぞ! それを横から掻っ攫おうなどと……」


「この先、信長が公方様の御身を狙わぬとも限らぬ。……ならば、公方様には越後におわして頂くのが最良であろう」


「勘違いなされますな。公方様の本懐は上洛を成し遂げること……! 我が身可愛さに安穏と過ごされるくらいなら、始めから京を出ておりませぬ」


 武田家臣と上杉家臣が睨み合う中、見覚えのある男が割り込んできた。


「やめてくれ! 儂のために争わんでくれ!」


「公方様!?」


「なぜここに……」


「すまぬ。聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、話が聞こえてきたものでな……」


 義信と謙信がバツの悪い様子で顔を見合わせる。


 今後足利義昭を利用する上で、なるべく悪い印象は持たれたくない。


 義信は義昭の前に出ると、


「ご心配なく。別に争うてはおりませぬ。当家と上杉は昵懇じっこんの間柄……。それゆえ、少々口が過ぎてしまったのです」


「……………………左様。武田殿のおっしゃる通りだ」


 上杉謙信とて足利義昭の前で言い争うつもりはないのか、義信の弁に乗っかった。


「そうか……! 安心したぞ……!」


 ホッとしたのか、義昭が胸をなでおろす。


「もう夜も遅い。儂は寝るとしよう」


 義昭の背中を見送ると、謙信がちらりと義信を一瞥した。


「此度は公方様の顔を立てておく。しかして公方様をお迎えすること、諦めたわけではないぞ」


 そうして、上杉謙信が自陣に戻っていくのだった。

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