第27話 父と子2

 突如として現れた信虎に愕然とする信玄。


 なぜここに信虎がいる。義信が連れてきたのか。だがどうやって。


 逡巡する信玄をよそに、義信が信虎を指した。


「義兄殿には爺様をつけました。……何かあれば、すぐに報告してくださるでしょう。そうでなくとも、爺様は長いこと今川におり、人望も厚いと聞きます。

 義兄殿が不穏なことをする前に、うまいこと手綱を握ってくれることでしょう」


「うむ。任せておけ」


 胸を張る信虎。


 しかし、信玄の耳には義信の話が入っていないのか、じっと考え込むような仕草をしていた。


 しばしの長考の末、信玄が口を開いた。


「……………………読めたぞ。義信を操り、再び武田を我が物にせんとけしかけた……。

 すべては父上が武田家当主に返り咲き、実の父を駿河に追放した儂に復讐するために……。そうでしょう!?」


 どこか悲痛ささえ漂わせて信玄が叫んだ。


 義信と信虎が顔を見合わせた。


「違いますよ。爺様は私が無理に呼んだのです。追放されたとはいえ、故郷の土を踏めなくなるというのは辛いでしょうからな……。

 甲斐に帰る大義名分と手土産があれば、難しいことではないでしょう」


 信玄が難しい顔をする。


 追放した信虎をこの場に──甲斐に呼び寄せるということは、信虎を追放して当主の座についた信玄に対する挑戦に他ならない。


「義信……貴様、まさか……!」


「勘違いなさいますな。私にそのような野心はありませぬ。

 ……ただ、もういいでしょう。追放先の今川が乗っ取られたのですから、駿河に置いておくわけにもいかぬでしょうし……。よもや北条に追放するわけにもいきますまい」


 義信の言葉に信玄が押し黙った。


 義信の言ってることはわかる。わかるのだが、だからといっていきなり信虎を連れてこられても素直に飲み込めないというものだ。


 ちらりと信虎に視線を移すと、信虎が口を開いた。


「晴信よ……よくぞここまで武田を大きくしたな」


「なっ…………」


 信玄が息を呑んだ。


「いま、なんと……」


「お主が家督を継いでからというもの、信濃を手に入れ、上野を手中に収めた。武田家の力は大いに増した。儂が当主のままでは、武田はこうも大きくはならなかっただろう……」


 目を細める信虎に、信玄がたじろいだ。


「い、嫌味のつもりですか! 儂は父上を追放したのですぞ!? その儂を、なぜ……」


「愛する息子が父を越えたのだ。喜ばぬ親がどこにいる」


「なっ……」


「お前は、儂の自慢の息子じゃ」


 信虎の言葉に信玄が耳を疑った。


 愛する息子? 自慢の息子?


 おかしい。そんなはずはない。自分は父を追放した。恨まれる覚えこそあれど、認められるなどありえない。


 信玄が席を立つと、義信が口を開いた。


「父上、どちらへ?」


「…………今日のところはここまでとする。……義信への沙汰は追って知らせる」


 それだけ言い残して、信玄はその場をあとにするのだった。






 自室に戻ると、信玄は甲斐に戻っていた馬場信春を呼び寄せた。


 義信との話し合いの場に信虎が召喚された。


 義信の真意はどうあれ、これは信玄の方策を否定する行為に他ならない。


 場合によっては謀反とも取られかねない行動ではあるが、信玄は義信の真意を計りかねていた。


「……信春、お主はどう思う」


「若様に他意はございません。謀反を企てようなどとは、微塵も思っておりませぬ。

 若様はただ、信虎様と溝を抱えたお館様の仲を取り持とうとしただけにございます」


 義信の翻意を信春が否定する。


 馬場信春は義信と共に甲斐に帰郷した。

 ということは、信春も信虎が同行していることを知っていたはずだ。


 そうなると、義信は目付けにつけたはずの馬場信春を抱き込み、今回の計画を決行した、ということになる。


(義信が儂を出し抜き、儂を越えた、か……)


 やろうと思えば、義信は謀反だってできたはずだ。


 既に義信は謀反を成功させられるだけの力を、謀略を、人望を、兼ね備えているのだ。


 だが、それをせずに、義信は信虎と信玄の仲を取り持つことを選んだのだ。


 場合によっては謀反を疑われるにも限らず、だ。


「信春よ、儂はこれからどうすればいいと思う……」


「武田家では代々身内同士の争いを繰り広げてきました。お館様しかり、信虎様しかり……」


「……………………」


「お館様が苦しんでおられるのは、いつの日か若様に追い落とされる日が来るのを恐れているからにございましょう」


 信玄が押し黙る。


「身内を疑い、陥れ、追い落とすのは、もう終わりにしましょう。

 お館様には自ら負の連鎖を断ち切って頂きたい。……それが若様の願いなのです」


「自ら断つ、か……」


 武田は6ヶ国の太守となり、日ノ本で有数の大大名となった。

 いまお家騒動が起きれば、武田の争いに他家が介入することは目に見えていた。


 だから、これはこれで必要なことなのだ。


 武田のお家騒動に介入させないため。

 武田家を守るため。

 これもなくてはならない手順なのだ。


 自分にそう言い聞かせると、信玄は少しだけ自嘲した。


「義信の策に嵌ってやるのは、いささか癪ではあるがな……」






 後日。再び義信と信虎を招集すると、二人の前で信玄は信虎に頭を下げた。


「…………これまでの数々のご無礼、申し訳ございませんでした……」


「言うな……。これも武田が大きくなるために必要だったこと。必定だ」


 久方ぶりに信虎と視線を交わすと、信玄が義信に向き直る。


「三河に続き、駿河、遠江を手中に収めた。義信の手腕、武田の頭領にふさわしきもの……。これよりは、義信が武田の当主を名乗るがよい」


「父上……」


 自ら当主の座を明け渡した信玄に感じ入るところがあるのか、信虎が小さくつぶやいた。


「晴信……」


 信玄にまっすぐと見つめられ、義信は深々と頭を下げた。


「……謹んで、お受けいたします」


「父上が儂を認めて下さったのだ。……今度は儂が義信を認めてやる番よ……」


 そう呟く信玄の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。






 後日、領内各地から武田家の重臣が集められると、義信の当主就任が正式に発表された。


 知略と謀略でまたたく間に東海三国を手中に収めた義信の実力は、武田家中では誰もが認めるところであった。


 その義信が武田家当主に就いたとあっては反対が出るはずもなく、家臣たちは改めて義信に忠誠を誓うのだった。






 おまけ


「それでは父上、さっそく富士川の治水をお願いいたします」


「なに!? 儂は隠居中の身じゃぞ!?」


「父上こそ、何を寝ぼけたことを……。今の武田の頭領は私です。父上には従う義務がある。……そうでしょう?」


「なっ……この儂をこき使おうというのか!」


「父上がおっしゃったのでしょう」


 義信の指し示す先。


 部屋にかけられた掛け軸には、『人は城、人は石垣、人は堀』と書かれていた。


「父を顎で使うとは、なんと親不孝な息子じゃ……」


「父上が生きているうちに天下を見せようというのです。……こんな親孝行な息子、他にいないでしょう」


「まったく、ああ言えばこう言う……」


 信玄は苦々しい顔で、しかしどこか憑き物が落ちたような顔で口元に笑みをたたえるのだった。





あとがき

現在の武田家の領地は甲斐、信濃、上野、三河、駿河、遠江ですね

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