第9話 もっと、もっと、ちょースーパーウルトラ

 結局稔はそれから三日ほど滞在して十七日に千葉に帰ることになった。本家の面々は夏休みが終わるまでいてもいいと言って引き留めたし、稔ももっと本家にいたい気持ちもあるらしいが、最終的に早めに帰ることを決めたのは稔自身だった。


「ちょっとでもバイトしてお金を稼がないとね。親と喧嘩しても家出ができるくらいには」


 そういう彼を本家はみんなで応援することにした。


「バイト先も早く戻ってきてシフトに入ってくれたら嬉しいと言ってくれているし」

「カフェでバイトしてはるんやったな」

「そうそう、大学近くのね。通学の定期で行ける範囲の」


 カッターシャツにエプロンをつけた稔が給仕してくれる様子を想像した。女性客で大変なことになりそうだ。現に店で女性がトラブルを起こしてクビになりかけたこともあったらしいから、池谷稔、罪な男である。しかも下を脱毛する男なんてろくな男ではない、と思うが椿は彼を嫌いになれない。


「店員が同じ大学のバイトばかりだから、夏休みと春休みは毎年人手不足なんだ。地方出身の人たちが帰省するでしょう? 首都圏に住んでいる僕らが駆り出される」

「稼ぎ時やな」

「椿くん学生の時にバイトしたことある? ないよね」

「僕まだ何も言うてへんがな。ないけど」


 最近は香爽園の店頭に立っているし、身内以外では去年みかんを収穫する農業バイトも経験した。職業としては成り立っていないかもしれないが、少しずつ経験を積んでいる。


「今年もみかんもぐかな」

「何それ」

「去年の冬みかん農家に身売りしてん」

「楽しそう。僕もやりたい」


 車を運転していた大樹がフットブレーキを踏み、サイドブレーキを引いた。


 いつの間にか沼津駅のロータリーについていた。


 夏休みの沼津駅は混雑していた。意外と若いカップルがいる。

 このシーズンは青春18きっぷで訪れる学生が多いと聞いた。もしかしたら沼津は通過点に過ぎないのかもしれないけれど、東京から関西に行く道のりの中で気軽に立ち寄れる街として駅前も発展していってくれたらいい。

 中には地元の高校生カップルがデートしているケースもあるらしく、微笑ましくて良い。椿もいまさら中学高校ともっと遊びたかった気がしてくるが、そこには向日葵がいないのだからこれでよかった気もする。


 沼津にいると、いろんな人生が見えてくる。

 それは、京都で実家を継ぐことしか考えてこなかった椿の脳内に革命をもたらしている。


 だから、ひとを好きになることも増えたのかもしれない。

 池谷家の家族、稔や菜々、里香子やその取り巻き、椿は向日葵以外の人間にも興味を持ち始めた。


「ついたぞ」


 大樹が言うと、助手席に座っていた稔が肩を落とした。


「やっぱり本家にいたかったな」

「このまま戻るか? うちはぜんぜん構わねーぞ」

「ううん、決めたことは守るよ。そんなことを言っていたら永遠に関東に戻れなさそうだしね」


 ドアを開け、一歩を踏み出す。


「俺はここまでだ。気をつけてな」

「うん、ありがとう、大樹兄。仕事がんばってね」

「お前もな」


 後部座席で、椿の隣にいた向日葵が「わたしたちは行こう」と言った。


「みのくんお見送りしてくる」

「おう、行ってこい。俺はここで待ってるからな」

「椿くんも来るよね」

「当たり前や」


 稔が「ありがとう」と笑った。


 夏の日差しの下、白い建物に取り付けられたJR沼津駅の文字がまぶしい。


 椿、向日葵、稔の三人で駅構内に向かう。ベルマートで若い男性がラブライブコラボののっぽパンを手にしている。沼津のソウルフードのっぽパン、椿もちょっと食べたい。意外と重いので向日葵と半分にしよう。


 改札の前で稔と向き合った。

 既視感がある。

 そういえば、椿もここで向日葵とこうして向き合ったことがあった。初めて沼津に来た時のことだ。あの時椿はすぐに京都に戻らねばならずここで向日葵に見送られた。

 あの時の心の底が抜けるような絶望感を思い出すと足がすくむ。

 本当は向日葵に泣いて引き留めて欲しかったのだが、向日葵は思いのほか大人で、椿にこっこという菓子だけ持たせて椿を送り出してしまったのだった。新幹線で泣きながらこっこを食べたあの日からもうすぐ一年、一生物のトラウマだ。


 不意に椿の手を向日葵がつかんだ。驚いて彼女のほうを見たが、彼女はまっすぐ正面の稔を見据えていて椿の顔は見ていなかった。


 向日葵が、稔に笑顔を向けている。

 あの時は、どうだったか。


「みのくん、がんばってね。うちはみんなみのくんの味方だからね」


 稔も笑顔ではあるが、どことなく硬い。


「僕、今まで二十年、二十一年弱生きてて、父さんと喧嘩するかもしれないという覚悟で家に帰る日が来るなんて思ってもみなかったよ」


 よっぽど強権的で反抗できないほど恐ろしい親なのかと思っていたが、どうも違うらしい。


「正直、子供の頃の僕にとっては父さんは良い父親だったよ。いつも味方してくれたし、厳しく指導されたこともあったけど、僕のためを思ってやってるんだってわかっていた。日曜日にはサッカーをやったり、半年に一回くらいディズニーランドに連れていってくれたし、夏休みには旅行に行ったこともあった」

「そうだね」


 向日葵も頷く。


「正樹叔父さんはわたしにとってもいい叔父さんだったよ。椿くんと結婚するまではね」


 この叔父に敵意を剥き出しにされた椿にとっては完全なる悪だ。

 しかし叔父が大事に育てた可愛い姪にくっつくよその男が気に食わないというのも理解できないわけではなかった。

 椿の実家は洛外から来る異物は徹底的に排除しようとするタイプだ。坂東育ちの農民の娘である向日葵のことを永遠に認めないだろう。坂東どころか伏見や山科でもだめだ。あの家はそういう家だ。

 伊豆からきた花代、秋田から来た桂子、京都から来た椿を家族として認めてくれる、池谷の家。


「父さんは自立しようとする大きくなった子供でも自主性を持った個として認めてくれない。父さんの老いでもあるし、僕らの成長でもあるんだろうね」

「うん、すごくそう思う」

「通過儀礼なんだ。僕は父さんを超えなきゃいけない。ここで強くならないと、僕は永遠に父さんの子供のままなんだ」


 そして、「よし」と気合を入れた。


「貯金するぞ。家出するんだ」


 向日葵も「よし」と言いながら椿の手をつかんでいるのとは反対の手でガッツポーズをした。


「また来るよ。今度は年末かな? もしかしたら年末年始も働いていて本家に来れないかもしれないけど、僕のこと忘れないでね」

「何を言うか! みのくんがイギリス行ったまま帰ってこなくなってもわたしたちは永遠に従兄弟だよ、親戚で友達だよ!」

「でもちょっとさみし……、あ、そうだ」


 稔が椿を見た。ばっちり目があった。


「椿くんインスタやらない?」


 予想外の誘いに、椿は目を瞬かせた。


「インスタ? SNSか?」

「そうそう。LINEだとちょっと仰々しいからさ、他の何かでゆるくつながれたらいいな、と思って。ツイッターでもいいけど、僕がメインで使っているのはインスタだから。ひまちゃんとも相互フォローなんだよ」


 向日葵の顔を見た。向日葵が微笑んだ。


「やってみる? 最初は見るだけで投稿しなくてもいいし、気が向いたら沼津で見つけた季節の花でも上げてよ」

「季節の花、ねえ」


 椿は適当に「考えとくわ」と答えた。関西人の考えとくわ、はだいたいノーだが、東日本育ちの向日葵と稔はどう解釈したかわからない。


「じゃあね!」


 そう言って稔が小走りで改札を抜けていった。向日葵と椿はその背中を見えなくなるまで見送った。


 稔が完全に去ってから、向日葵が椿の手を握ったまま踵を返した。


「戻ろ、お兄ちゃん待ってる」

「うん」


 今度は、一緒に帰る。

 この駅を出て、向日葵の家に帰る。

 彼女と、僕が住む家。


「ねえ、椿くん」


 彼女が首だけちょっと振り返って笑った。


「あのね、椿くんにひとつ言わなきゃいけないことが」


 どきりとしながらも、平静を装って「何や」と答えた。


「わたし、みのくんが大好き」


 心臓が破裂しそうになる。


「お兄ちゃんのことは大大大好き」


 それをなぜ今、と思ったが――


「椿くんはもーっと、もっと好き! ちょースーパーウルトラ好き!」


 彼女は椿の不安を敏感に察知してくれている。

 それに気づいた瞬間全身から力が抜けそうになり、彼女にもたれるようにして彼女を抱き締めた。


「のっぽパン買って帰ろ。椿くん好きでしょ」

「うん、丹那牛乳のやつ」

「いいね、いいね。一緒に食べようね」



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