第42話 恋愛下手の作り方

 葉月との半同棲生活が終わり、いつもの日常が戻ってきた。

 朝起きて朝食をとり、身支度を整えて職場に行く。何も変わらない、普通の日。


 そんな普通の日だった今日を一変させたのは、旧友からの一本の電話だった。


 マナーモードで震えている自分のスマホを見ると、そこには中学の同級生で自動車ディーラーに勤めている松岡健太の名前が表示されていた。


 彼から電話がかかってくるということは、車の点検のお知らせだろうか。はたまた、リコールなんかが見つかったのかななんて僕は考える。


 しかし、電話に出てみるとその予想は大きく裏切られた。


「もしもし?」


「一太郎、ちょっと聞きたいことがあるんだが、今大丈夫か?」


「大丈夫だよ。ちょうどひと息入れようと思ってたところだし」


 ビジネスモードの健太の口調ではなかったので、僕は一瞬驚いてしまった。かなり慌てている感じがする。


 あの健太がドタバタしているとなると、あまりいいお知らせではないような気がして、僕は急に不安に襲われる。


「いや、知ってたらでいいんだけどさ。葉月のやつ、いつの間に会社辞めてたんだ? さっき外回りでタクシー会社に行ったら、この間辞めたって言っててさ。お前、何か知らないか?」


 僕は健太の言っていることがすぐに理解出来なかった。


 葉月がタクシー会社を辞めたなんて、寝耳に水もいいところ。

 職場の文句なんていうものを葉月から一言も聞いたことなどなかったので、会社を辞めたなんてことに僕自身が一番驚いてしまっていた。


 僕は健太に何も知らないことを告げて電話を切る。そしてすぐさま葉月に電話をかける。しかし、彼女のスマホは電源が切られていて、電話が繋がらない。


 嫌な予感がした僕は、咄嗟に葉月の実家に電話をかけた。

 3コールもしないうちに桜庭家の誰かが電話を取る。


 その声を聞いて、葉月ではないのがすぐわかった。電話に出たのは、彼女の妹である弥生やよいだ。


「もしもし弥生ちゃん? 葉月は家にいる?」


「ああ一太郎さんこんにちは。ええっと、お姉ちゃんなら、今朝普通に会社に行きましたけど……?」


「それが葉月のやつ、会社にいないみたいなんだ。それどころか、いつの間にか会社を辞めていたらしくて……」


 妹ですらそのことを知らなかったのか、電話越しに驚きの声をあげる。


 今朝もいつものオフィスカジュアルに身を包んで家を出るのを、弥生は確かに見届けたとのこと。

 夏場は自転車通勤だが、雪が降ってきたので今日は歩いて職場へ行くと葉月は言い残していたらしい。


 葉月はどこに行ってしまったのだろうか。それに、どうして急にそんなことをしてしまったのだろうか。

 謎が謎を呼ぶ事態に、僕は思考が全くまとまらず動揺していた。


 すると、電話の向こうで弥生が何かに気がついたようだ。


「あの……、一太郎さん。今お姉ちゃんの部屋をちょっと覗いたんですけど、いつの間にもぬけの殻になってて……」


「それは本当なの!? 手がかりになりそうなものとかない?」


「ええっと……、机の上に何枚か書き置きみたいなのがあります。――『一太郎さんへ』って書かれたものも……」


「わかった! ちょっと今からそっちに行くよ」


 僕は雅春さんに直談判して仕事を取りやめ、すぐに葉月の実家へと向かった。


 桜庭家にたどり着くと、心配そうにしていた弥生が出迎えてくれた。


「――それで、葉月の書き置きっていうのは?」


「これです。一太郎さん宛と、家族宛の2通でした」


「家族宛の方にはなんて書いてあった?」


「ただ簡潔に、突然いなくなってごめんなさいということと、この家を出て遠くの街に行くので探さないでくださいということだけ書いてありました」


 家族宛の方には、確信めいたことは何も書いていないようだった。

 そうなると、僕宛の方に葉月の本当の気持ちが綴られている可能性が高い。


 僕は、恐る恐る自分へ宛てられた書き置きを開いて読み始める。

 そこには葉月の丸っこい字で、こう書かれていた。



 一太郎へ。


 突然いなくなってごめんなさい。この書き置きを呼んでいる頃には多分私はいないだろうし、一太郎も凄く驚いていると思います。


 まずは女性恐怖症の克服、改めておめでとう。すっかり元の生活を送ることができるようになったみたいで、私も嬉しいです。


 最初に付き合い始めたときに、「女性恐怖症を克服するのに協力してあげる」と言ったこと、覚えているかな?

 あれは言葉の通り、一太郎が女性恐怖症を克服するまで手伝ってあげようという、私の思いつきです。

 結構時間がかかると思っていたけれど、あっという間に克服出来てびっくりしています。


 ちゃんと目標が達成できたので、ここで私とはお別れです。


 私のことなんて、もっと軽く扱ってくれてもよかったのに、一太郎はとても優しくしてくれて嬉しかった。想定していた以上に随分と踏み込んだ関係になってしまって、嬉しいような恥ずかしいようなそんな気持ち。

 でも、このままずるずると引きずると余計に辛くなると思って、突然いなくなるという手段をとりました。ごめんなさい。


 ひとつだけ、勘違いはしないでほしいことがあります。


 私は一太郎のことが心から大好きです。人生で一番大切な人であるのは間違いありません。

 ただ、私の存在自体が一番大切な人の邪魔になってしまう気がして、それがどうしても許せませんでした。


 私は元AV女優です。このことは、一太郎と妹の弥生しか知りません。

 何故かというと、やっぱり理解をしてくれる人がまだまだ少ないからです。


 職業に貴賤は無いと私は思っています。何者でもなかった私はAV女優になれたことで自分を見つけて、それが今の人生に繋がっている。それだけで十分、AV女優だったことに誇りを持てています。

 一太郎もそのことを理解してくれて私を愛してくれるので、それがとても嬉しかったです。


 ただ、私と一太郎がどれだけ愛しあっていても、世の中でそのことをわかってくれる人というのは多くはありません。


 この間、尊くんと話したときにそれを強く感じました。

 2人だけならまだしも、周囲の理解が得られない。そんな辛さを彼から吐露されて、私はやっぱり一太郎のそばにいてはいけないなと思いました。


 今は大丈夫でも、いずれ誰かに知られてしまう日が来てしまうかもしれない。

 そうなったとき、立派に働いている一太郎には少なからず影響が出るでしょう。


 私の過去のことで、一太郎を苦しめることは出来ない。だったらそうなる前に姿を消そう。それが今回突然いなくなった理由です。


 大丈夫。もう一太郎は女性恐怖症を完璧に克服できたんだから、怖いものなんてないよ。私がいなくても、きっと上手くできる。


 だからどうか、私ではない他の素敵な誰かと幸せになってください。そして、私のことはきれいさっぱり忘れてください。


 それがせめてもの、私の願いです。


 今までありがとう、大好きだよ。


 桜庭葉月



 書き置きを読み切った僕は、ただただその場所に立ち尽くした。

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