七話 娘裸酒
気がついた時には、脱衣室の細長い椅子に腰掛けていた。もちろん、着衣済みで。
冷え切った瓶を持っていて、その中には緑色に光る毒々しくも禍々しい謎のエキス……いや、ドリンクがある。
この飲み物の名は「娘裸酒(こらしゅ)」。食欲を唆るとは嘘でも言えない見た目だが、ほんのり落ち着かせる様な苦味とパチっと口の中でたまに刺激を与える炭酸が奇妙なコラボレーションを生み、謎の中毒性がある一品だ。
初めは抵抗も相まって口に含むのを躊躇うが、一口飲めば最後、グビグビと喉の違和感に気づくことなく、この緑の液体を胃へ運ぶ事になるであろう。
嘘か真か、ある一人の少女がこのドリンクの虜になってしまい、我に帰った時にはすっぽんぽんの状態だったとか。そうして裸で街中を赤面で駆け抜けていったのは有名な話。らしい。
だが、その名に勝るほどのアルコールが娘裸酒にあるわけではない。一瓶飲んでもほろ酔いとまでもいかないくらいだ。だから、子供でも正式的に飲酒が許されている唯一の酒なんだとか。
……雑学を一人で述べているとすごい気が楽になった……気がする……そうでもないか……うん、そうでもない。
楽になったのは束の間。香花が視線に入るとナナは瞬時に身体が重くなった。香花の発言以降、ナナは香花と話していない。多分……そう多分。
「ナナ、浴場から随分ぼーっとしてるけど大丈夫? のぼせた?」
「いえ……大丈夫です」
プイッと視線を逸らしつつ、ナナは返答する。傷つけてしまったか、と一瞬チラッと香花に視線を配るも、そんな様子はなかった。ふふっと静かに微笑ましい香花が顔も分からない母親のように見えて眩しい。
湯上がりの香花はとにかく色っぽくて、色白な肌が薄っすら赤色している。その額や腕から垂れる汗がその光景を演出していた。
ナナは浴場の告白以降をよく覚えていない。
だってあんな告白されたら……誰だって頭の中、真っ白になっちゃうでしょうが!
脳内でツッコミがこだまする。
「ナナー、もう営業終了時間近いんだからさぁ、早く娘裸酒飲み終えて帰ってよ」
自分より上の位置から生意気な幼い声が聞こえた。目をやると、番台の上にちょこんと座る小柄な女の子が、つまらなさそうに肘をつけてナナのことを見下しつつ呆れている様子だった。
少女の名は魂宿一奈(こんしゅくいちな)。幼い女の子だが、この銭湯の女当主だ。幼いのはあくまで見た目であって、実年齢は不明。
こんなちんちくりんな見た目だが、彼女の仕事ぶりは素人目線のナナからしても分かるくらいにはテキパキとしていた。それ故、浴場はいつも清潔だし、1分の遅れもなく、いつも煙突からは煙が立ち籠めている。店内の見回りだって欠かさないし、ナナが今飲んでいる娘裸酒も彼女が造酒したものだ。一人だと膨大な仕事を一奈は1日足りとも休まずに、こなしている。
だが、ナナは一奈に尊敬の眼差しを向けることはない。百二十センチという小学生並みの身長でありながら、お世辞にも栄えているとは言えないが、広々としている銭湯をたった一人で築いている事に関してはナナも感心している。
では何が不満なのか。
「ねえ、なんでボケーと僕の顔眺めてんのさ。正直、僕は今気分を悪くしてるよ。君のそのつまらない顔を見せられてる事にさ。さっさと言われた通り娘裸酒一気飲みでもして出てってよ。喉にあの尋常じゃない刺激で負荷をかけすぎてさ、君が呼吸困難にでも陥ってくれれば僕の気分は晴れるんだけどなぁ。そうだ、今度君が飲む娘裸酒だけ、そう作っておくよ」
相変わらずの毒舌だ。口だけなら四八目にだってヒキを取らない。そう、一奈を尊敬できないのはこの口の悪さにある。彼女の口から放たれる愚痴は棘のように鋭く、聞くだけでグサリと刺さる。一切のデレもないツンとした性格は初対面の頃から変わっていない。
『君名前は? ――ふーん、ナナって言うんだ。引き籠もってそうな見た目なのに名前は意外と単調なんだね。変なの』
初対面の時はそう言われた。ナナも初めは苦笑いで誤魔化していたが、今では一奈の言葉には耳を貸さぬよう拒絶していた。
ナナの遅い支度に嫌気が差したのか、一奈は指で番台をトントントンと叩くようになった。次第にその音は強さを増し、ナナにはそれが「早く帰ってくれ」と聞こえて仕方がなかった。
「一奈、ナナを虐めないの」
後ろから香花が指摘しこちらに寄ってきた。ナナは反射的に目を逸らし、明後日の方向を向いてしまう。
「虐めって言われるのは心外だね。僕は終了時間が近くなってきたから帰れって言ってるんだよ。それに娘裸酒で酔われたりしたら店から引きずり出す労力と時間がかかっちゃうからね」
「娘裸酒で酔うやつなんてあまりいないでしょ」
「それがたまにいるんだよね。ナナとかアルコールに対する免疫無さそうだし、酔われたりしたら迷惑なんだよ」
心のない機械のようなことを淡々と一奈は語った。その血も涙もない独立自尊な態度は清々しいほどに裏がなく、本心そのものだった。
「そういえば君変わったよね。今までは誰を相手にしても一定の距離感を保ってた君がナナ相手にはかなり甘い気がするよ。子を甘やかす親のようにね」
一奈はそう言い終えると番台を飛び降り、テクテクとその短い足で歩き、人差し指で香花の腹をツンツンと突きちょっかいを出した。そうして少し寂しげな素振りを見せた。
「正直、嫉妬しているよ。今まで同じ類いというか系統だった君がガラッと変わるからさ。僕は薄々君に親近感を覚えていたのに」
後ろで手を組み一奈はナナの前へと歩いた。
「ねえ、ナナ。君はどんな呪文、もしくは口説きを使って香花を振り向かせたの? 僕にも教えて欲しいなぁ」
嫌味にニヤニヤと笑う一奈。ナナは嫌悪感を抱いた。自分への皮肉ならナナは怒りを覚えることはなかったが、香花を貶すような口振りは聞くに耐えなかった。そんなことお構いなしに一奈は徐々にナナへの距離を詰め始める。
「教えてよナナー。娘裸酒1ヶ月無料にするっていうのと交換条件でもいいよぉ。それとも無料入浴券3枚? あ、3ヶ月間僕が敬語で君に話すって言うのはどう? 僕見ての通りプライドが高いからさぁ、滅多にないチャンスだよ、これ」
「教えるも何も口説いたりしてないですよ」
「本当? じゃあ香花は君の容姿にでも惚れたっていうの?」
「し、知らないですよ……」
ありもしない話なのに根拠のない自信がヒシヒシと奥底から湧いてくる。
その発言を撤回するように香花は反発する。
「やめなさい、一奈。私はナナの容姿に惚れたわけじゃないわよ。決してね」
香花の強い否定がナナに刺さり、「ウッ……」軽く呻き声を上げる。
「あんたも人への関心なんて今まで無かったじゃないの。それなのに急に人付き合いに探りを入れるなんて、変わったのはお互い様よ」
「違うね。僕は人間関係が気になったわけじゃない。君がただ気になっただけだよ。性格が変わった人を気にするなっていう方が難しい話だと思わないかい?」
「なるほどね」
的確な回答に香花はこれ以上返さなかった。
「何はともあれ、あんたは私たちに早く出て行って欲しいのでしょ。だからこれ以上は話さないわ」
そう言うと香花はくるりと方向転換して一奈に背を向けた。
「あ、そうそう一奈」
言い忘れていたことを思い出し、香花は足を止める。
「何?」
振り向きもしないまま、香花はこう続けた。
「あんたの服……裏表逆よ」
! 即座に衣服を見る一奈。腹部には確かにタグがついていた。
「――――!」
あまりの恥ずかしさに言葉を失う一奈。顔が真っ赤になるまでは閃光の如く早かった。
「そ、そそそう言うことはもっと早く言うもんだよ! バカ!」
背丈に合った単調な暴言が飛ぶ。「じゃあねー」とお構いなしに香花は外へと向かった。その時の香花がいたずらっ子に見えたのは言うまでもない。
「ナナ、いくわよ」
「あ、ちょっと待ってくださいよ!」
その後、知性を感じない罵詈雑言が後ろから飛び散らされるが、入り口の戸を閉めた途端、それ以降は聞こえなくなった。
一奈の意外な一面にナナは驚きを隠せなかった。
「ほら帰るわよ」
香花に変化は特に無かった。
「は、はーい」と小さく返事をし、先に出発した香花の背中をナナは追った。
結局、香花とどう接していくか。意見は固まらなかった。こんな事なら一奈にダメ元で相談すべきだったとナナは少し後悔した。
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