六話 返事
口元を湯船に浸しながら、ナナはブクブクと泡を吹いていた。
香花に励まされた後、ナナが涙を袖で拭い終えるまでそれ相応の時間を有した。香花はそんなナナを急かす様子もなく、ただ静かに見守っていた。
結局、銭湯に入る頃には日が暮れていた。後ろめたさと気恥ずかしさからナナは香花と顔を合わせることができなかった。銭湯で香花が番頭に金銭を払っている所もまともに直視していない。
この拭いきれない罪悪感をナナは洗い流そうと湯へ浸かったが……どうにも気分が晴れなかった。
この銭湯にナナが来たのは初めてのことではない。今はもう随分と見慣れたものだが、この世界の銭湯は自分がいた所とは少し違っていた。
例えば、入口。あっちの世界では男女で分かれているが、この世界には入口が1つしかない。脱衣所、浴場も1つだ。だからやけに広い。
後、シャワーなんかもない。なので、身体を洗う時などは風呂桶に湯を溜め、それを持ち運び使用しなければならない。ちょっと面倒だ。そのため、かけ湯とはまた別の湯が溜まっている場所がこの銭湯には存在している。
「ふー」
ザバァッと前の湯煙で誰かが立ち上がった。香花だ。
とてもスリムでスレンダーなその身体は湯煙越しでも赤くなっていることがわかる。
「先に洗ってるわよ」
「……はい」
短く小さな返事をすると、香花はナナから遠のき、洗い場へと向かった。遠のく香花を目で追うと、不意にもお尻が視界に入り、目のやり場に困った。
濡れたタオルを絞りながら、桶にお湯を掬い、椅子へと向かった。この昔を感じさせる光景にも動じなくなってきた。慣れとは恐ろしい。
だが、慣れのお陰で最近は香花との距離が縮んだようにナナは感じていた。ベンチで起きたあの告白までは。何事もなければ今も楽しく談話ができていたと思う。ナナは自分の不甲斐なさを悔やんだ。
「ナナー」
呼んだのは香花だった。他に客一人いない浴場にその声は響く。
「こっちに来なさい」
仰せのままにナナは香花の元へ足を運ぶ。
すでに、身体の隅々まで洗い終えた香花はひょいひょいと手を内側に仰ぎ、ナナを誘った。
「どうしたんですか、香花さん」
「座って」
ぽんぽん、と香花は椅子を叩く。
言われた通りナナは座った。
「……座りましたが」
「背中をこっちに向けなさい、頭洗ってあげるわ」
「えっ、いいですよ……自分で出来ます。子供じゃあるまいし……」
「いいから、早くっ」
頭を強引に掴まれ、鏡の方へ向けられた。
……香花さん、機嫌が良いのかな? ちょっとテンションが高いような……もしかしたら、あの告白を気に入っているのかな? 罪悪感が……。
異性の存在しないこの世界であのような告白はいわゆるプロポーズとして捉えられるのだろうか。もしそうであれば、香花の「ありがとう」の意味合いはどうだろうか。告白を受け入れたのだろうか。
否、そうとは捉えられない。香花はあれをプロポーズと受け取っているともナナには思えなかった。あの無垢な笑み、あれは「好意」とかそう言ったものよりもむしろ「感謝」を伝えられたように感じた。
じゃあ香花はナナを恋愛対象としても見ていないのだろうか。
ザヴァー。
ナナの上から大量の湯が降り注がれた。
「んぅ……かける時は事前に言ってくださいよ! 香花さん!」
「あら、伝えたわよ。返答はなかったけども」
「んぐぅ……」
相変わらずの思考に没頭してしまう性格と自分の気も知らないでマイペースな香花に少し嫌気が差す。反論する余地もなく、香花はボトルからシャンプーを出し、手の平で泡立てた。
「頭洗うわよ」
「……はい」
小さく呟くナナの頭を泡立てられたシャンプーがモコモコと音をたてて広がる。香花は優しく頭を抱え込むかのように、爪を立てず指先に少々力を入れ、揉み解す。その器用なシャンプーにナナは自然と肩の力が緩んだ。
「何悩んでたかは知らないけど、たまには私に相談しなさいよ。まあ、訊かれたくない悩みだろうから探らないけど」
「……」
分からない。もしかしたら、何に悩んでいるか、胸を痛めているかを訊いて、構ってほしいだけなのかもしれない。
そう思う反面、ほっといて欲しいと思う自分もいた。どうして欲しいかなんて、自分が一番分からない。だから……訊かないで欲しい。
「…………」
「……はぁー」
無言を貫くナナに呆れ加減のない少し嬉々たる溜息を香花は吐いた。
シャンプーは勢いを止めず、ナナの頭を侵略するかのように泡立った。ナナの髪には充分過ぎるくらいだった。
「流すわよ、目瞑って」
ザヴァー。
シャンプーの泡はまだ微かに残り、香花はまた湯を補充して被せた。
ザヴァー。
「はい、流し終わったわよ」
ナナは顔の水滴を手で払い、瞳を開けた。
「次、身体ね」
「えっ! だ、大丈夫ですよ! 他の人に身体洗われるとか恥ずかしいし!」
「誰があんたの身体洗うって言ったのよ、自分で洗えってことよ。まあ、背中くらいなら流すけど」
「え……あ、はい」
勝手に盛り上がってしまった。気恥ずかしい。
頬を染めながらも、ナナは香花からタオルを借り、ぎこちなく石鹸を擦った。ぷくぷくと膨らんだ泡が床のタイルに落ち、小さなシャボン玉を作る。その弱々しくも割れぬようにと堪える様は自分以上に誇らしくナナは見えた。だからナナはシャボン玉をムッと踏み、音を立てることなく割った。そうして石鹸が充分泡だったタオルを香花に渡した。
「香花さん、その……よろしくお願いします」
少し照れ臭く視線を逸らすナナからタオルを貰い、香花は「分かったわ」とナナの背中へ優しく撫でる様にタオルを擦った。上から下、隅々まで。
その優しさ故に、ちゃんと汚れが落ちているのか、ナナは心配になった。
後で、念のため、ささっと自分でも洗おうかな……。
「ナナ……」
「はい?」
「あのね……」
珍しく香花が言葉を躊躇った。その間も、背中は丁寧に洗われており、ナナは疲労と気持ちよさからその事について何も感じなかった。
「…………私も好きよ」
だからこの告白は不意をつかれた。この発言がどういう意味なのか、愛の告白なのか、人として好いているのか。
あんまりにも突然だったので、ナナは表情を変えることも出来なかった。鏡越しには困惑を露わにした自分がいて、その奥で背中を洗っている香花の表情は湯気で確認できなかった。
その後、背中を洗い終え、香花に軽く礼を言い、浴室を出たという大まかな出来事は覚えていたが、それ以上のことは記憶になかった。
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