第32話 渡海
ふいい。
小便ちびるかと思ったぜ。
バクードはアロンゾが出て行った扉を睨みつけたままで息を吐き出す。
曲刀を寸止めしたアロンゾは感心したように言った。
「いい度胸だ。さらった娘の体面も考えてやるところといい根は悪くねえようだ。命は預けておく」
踵を返したアロンゾにバクードは啖呵を切る。
「俺は諦めねえぜ」
「姉御を裏切ったり騙したりしねえなら好きにするがいい。だが、ちっとは考えな。あの姉御がチンケな盗賊団の頭を夫にするわけがねえ。痩せても枯れても子爵の御令嬢だ。最低でもそれぐらいの地位と経済的な豊かさを提供できる甲斐性なしがデカい面すんじゃねえや」
背中を見せたまま手をヒラヒラとさせてアロンゾは手下を連れて出て行った。
今まで手も足も出なかった部下がバクードの顔色をうかがう。
「若。これからどうするんで?」
「そりゃ、残りの報酬受け取りに行くに決まってんだろ?」
「だって、若が自分でご破算にしちまったんじゃ?」
「いや、俺達はきちんとあのお姫さん一行の周辺を騒がせた。報酬はちゃんと貰わなきゃな」
「でも、用済みとばかり消されちまうんじゃ? どうもキナ臭い感じがして気に入らねえ」
「馬鹿野郎。今じゃ俺はこの茶番の大事な生き証人だぜ。それこそ俺がこれから何をするかアロンゾの大将が見張ってるだろうさ。みすみす死なせないように保護してくれるに違いねえ」
バクードも転んでもただでは起きないタマだった。
「報酬貰ったら、ニコシア帝国に向かうぞ」
「え? 本当に姫さんに惚れたんで?」
「そりゃそうよ。単に力が強くて胸がでかい女かと思ってたら、意外とでかいバックがついてやがった。皇弟ってのが何考えてやがるのか確かめるのも一興だ。でかいシノギの匂いがする。俺の勘が告げてんのよ」
部下に旅支度を命ずるとバクードは数人を連れて依頼人の元へと向かうのだった。
◇
雨はやんだものの風はやや強くシッタルア海峡を越える船は少し揺れた。
他家の姫が吐き気をこらえながら船室に閉じこもる中、ナタリーは甲板で風を浴びている。
湿気を帯びたやや冷たい北風がまとわりつくがあまり気にしたようには見えない。
自分の未来が広がる見知らぬ大地への希望に満ち溢れた表情で彼方を凝視していた。
ジェフリーとバッツを後ろに控えさせ、腕を組んで対岸を眺める姿は遠征中の艦隊司令官の風情がある。風邪を受けてマントが翻り、少し伸びた赤毛をなびかせた。
その様子を少し離れてカトリーヌが見ている。さらに離れたところからシャルロッテが熱心に観察していた。
シャルロッテの目が潤んでいるのは風が強すぎて目にゴミが入ったのかもしれない。
ナタリーが艦隊司令官という雰囲気を醸し出しているのには理由がある。対岸への連絡用の船の周囲には完全武装のガレー船が旗艦を守るように並走していた。
中つ海からシッタルア海峡を抜けた先には腐海と呼ばれる海域が広がっている。ナザール王国の版図の半分ほどの大きさの海の北岸は干潟になっていて半ば腐った海藻が腐臭を放っていた。
そんな環境だからか沿岸の三分の一ほどはどこの国にも属しておらず、追放者やあぶれ者の巣窟となっている。
船を仕立てて交易も行っているが、状況が許せば海賊行為を行うこともあった。
本来ならナタリー達お妃候補の渡海にはニコシア側で警護の船を出すべきところだが、ベルティア教国の侵攻により手が回らず一隻しか出ていない。
大事を取ってアロンゾが艦隊の半数を呼び寄せていた。
一応、ナザーリポリからニコシアのキーネ港へ向かう商船団の護衛という形になっている。護衛料金を安めに設定してあり、行程の決定権はアロンゾにあった。
無事に対岸の町ドーラスの港に入るとニコシア帝国の役人が出迎える。
用意された宿舎での逗留は、船酔いが癒えるのを待つという名目もあり二泊ということになった。
裏事情としては首都からの迎えのユータス侯爵が到着していない。
バールデウスが皇帝に従い東部に出征したのに随行したせいで到着が遅れていた。
そのため警備を引き継ぐはずの相手がおらずノーランが引き続き神経を張り詰めている。
そんな状況下で出航することに後ろ髪を引かれる思いであったが、アロンゾはナタリーがドーラスの町に到着した翌日にはキーネ港に向けて出港していた。
風向きが良いのに長逗留し、変に猜疑を呼ぶよりはとの判断だ。
船酔いも無く元気一杯のカトリーヌが町の近くの旧跡の話をナタリーに告げる。
「聖プラウメラの故事にちなんだ石碑があるそうです。お姉さま見に行ってみませんか?」
***
作者の新巻でございます。
新年あけましておめでとうございます。
ナタリーの物語。折り返し地点に到達いたしました。
引き続きご愛顧のほどをお願いします。
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