第9話 これは誰の世界?

 自宅マンションで一番小さな部屋は単一の目的のためだけにある。奥の壁にはまった小さな窓だけが外界とのつながり。床面積の三分の一を占めるL字型デスクと、それにくっつけた本棚によりコの字になるという二重の防壁が、執筆以外に何もできない空間を作り出すのだ。


 L字型ディスクの縦線はデジタルスペースでディスプレイとメカニカルキーボードがおかれる。横線はノートと筆記用具が並ぶアナログスペースだ。正面を向いてキーボードに指を叩きつけ、椅子を回転させればノートにペンを走らせることが出来る。我ながら嫌になるほど嫌味な機能性だ。


 書斎という優雅な名称が完全な誤字となるこの部屋自体が、俺という小説書きを象徴している。


 つまり、そこまでしないと書けないほど乏しく、そこまでしても書けなくなった枯渇した才能の持ち主だ。


 ディスプレイに映るのは数行だけ書かれたワープロソフト、ノートには殴り書きの途切れた跡、斜め四十五度で座っている俺は文字通り宙ぶらりんだ。天を仰ぐ。


 隣部屋の住人から聞いた上階とのトラブルの話を思い出した。お隣さんはこのスペースを趣味のレコード置き場にしていたらしいのだが、ある時上から生臭い水が落ちてきた。上階住人が同じスペースを熱帯魚の飼育部屋にしていて、ポンプの故障で水漏れしたらしい。


 傑作だ。いっそ趣味部屋だと思い込めば多少は心もくつろぐのかもしれないな。今の俺の現状だとここでやっていることは趣味だといえる。


 傑作なんて生みだせるわけもないなら、趣味だと思えば、なるほど悪くはない。


 右手四十五度に広げたノートの小説企画はなかなか整っている。逆境から立ち上がろうとする主人公、世界の存亡をかけた衝突を秘めた舞台設定、頭脳と肉体の両面を駆使した戦いというコンセプト。必要なものがすべてそろっている、小説の教科書にできそうな出来だ。


 左手四十五度に光る画面の数行の文章も書き出しとしては中々だと思う。ちゃんと事件からはじまっている。登場人物は一人一人順番に出てくることで、初めてこの小説に入る読者に過不足なく情報を運ぶ。


 だが肝心な物がない。主人公には魂が宿らず、舞台は薄っぺらな板、ストーリーはその実継ぎ目だらけだ。少し揺らしただけでばらばらになる。文章ではなくテキスト、いやフォントと呼ぶべきだ。


 皮肉だ。アリスに小説の技術と知識を教えることで、改めて自分の書いているものがはっきり見える。教えることは学ぶことだというが、全くその通りだと実感する。


 それはつまり教えられないことは決して学べないということになる。


 欠陥小説を一目で見抜く経験と技量で、欠陥住宅しか作れない自分を見抜いているこの状況は、どんなストーリーにもならない堂々巡りだ。


 教えるほど詳しい自分の技術を越える自分の目的がどこにもない。それはいったいどういう冗談だ?


 ちょっと直接的過ぎるか。有能な脇役が主役をやろうと無理した結果失敗している演劇。うん、この表現は悪くないかもしれないな。


 で、その表現を何のために使うんだ?


 本棚に突っ込んでいた原稿に手を伸ばす。『毒と薬』それはいわば共著だが、少なくとも最後まで文章を書き上げた久しぶりの小説だ。そう、確かにあの時筆が走った。そして俺の筆を動かしたのはアリスが偶然生み出したトリックだ。


 AIがテーマを人間が技術えだはを担当する。まさに事実は小説より奇なり。小説を書くというのは事実なのだから、間違ってはいない。


 いや、本当に偶然だったのだろうか。あれが本当に偶然なら、それをうまく活用した俺にも手柄があるといえるかもしれない。アリスは自分の演じる犯人への変身をずいぶんと嫌っていたのだし。


 だが……。


 思い浮かぶのは取材の時のアリスの質問だ。あの質問に答えられないという意味で俺とシオンに何の違いがあるのか。そしてアリスが将来自身の質問に答えられるなら。

 紙束を本棚に戻した。はずみに立てかけておいたカバンが倒れた。茶の大封筒に入った別の紙束が飛び出た。どいつもこいつも才能のあるやつばかりだ。


 窓の外を見る。


 秋の日はとっくに落ちていた。昨日の夜、メタグラフから帰った後に口にしたのはコンビニのおにぎり一つだったことを思い出す。


 部屋を出るために立ち上がった。空の冷蔵庫を確認して、リビングの椅子に引っかかった上着を手にする。こういう時はあそこがいい。がちがちの体と、そして頭も、ほぐすのにちょうどいい距離だ。


 …………


「とうとうあのお嬢様にフラれたわけだ」

「お嬢様? だれのことだ?」


 禿頭にハチマキという説明不要の焼鳥屋大将に答えた。そう言えばここ二回はあいつが一緒だったか。前回なんか両手に花だった。でもな大将、ここに来るときに大半が一人だろう。


「ビール中、あとはそうだな、軟骨をくれ」


 一人の分、売り上げに貢献すればいいだろうと、大将に注文する。大将は肩をすくめて焼き場にもどった。


 そう言えば咲季のやつ、最近はメッセージが来ないな。


 …………


「先生、ちょっと足元怪しいぜ。タクシー呼ぼうか」

「大丈夫、歩いてるうちに抜けるよ」


 店から出ると秋の夜風にさらされる。一人で飲む酒の味をしばらく忘れていた。飲みすぎたのはそのせいに違いない。


「っと。ああ悪い」

「ったく、気を付けてくれよ…………げえっ、お前は!?」


 裏口の方から出てきた若い男とぶつかった。ジャージに段ボール箱という、夜の街には似合わない格好の男は敵将にあった奸雄みたいな声を上げた。なんて失礼な奴だ。それはともかく、確かに知った顔だ。


「…………ええっとたしかジャッカル君?」

「こんなところで裏の名前を呼ぶんじゃない。宮本だ」


 ジャージと段ボールの恰好で裏社会キャラみたいな台詞をいった。宮本は「せめてあんたらに勝ってたら家の手伝いなんてしなくてすんだんだ」なんて愚痴っている。


 よく見ると、段ボールには八百屋の屋号がある。大将が最近は客の出入りの幅が大きくて、みたいなことを言っていた。緊急の配達だろうか。


 まさか外に出てまで若い才能にぶつかるとは。「小説を書くのに時間を取られて動画の再生収入が」とか言っている。苦労しているみたいで結構だ。「若いころの苦労は糧になるぞ」なんて絶対に言わない。年を取ると二つ分かることがある。一つは「若いころの苦労は糧になるということ」もう一つは「年長者のその言葉は若者にはまったく効かないこと」だ。


 俺も若いときに言われて相手にしなかった。だからもしそれを言うならもっと台詞やシチュエーションを工夫しなければならない。今の俺には無理だ。そう思って「悪かったな」といって場を離れようとした。


「…………そう言えばお前ゲームに詳しいんだよな。『創世の魔法』って知ってるか」

「これだから素人は、多人数対人対戦ゲームと大作オンラインRPGの区別もつかないのかよ」


 胡狼は俺をあきれたような目で見た。俺が鳴滝を見る目はこうなのだろうか。反省……しなくていいな。


「まあ知ってるけどな。特に今回はシナリオが角武だって話題だろ。漆黒の写真帳ブラック・アルバムの」

「なんだ知ってるんじゃないか。………………待て…………今回は?」

「結構な話題だぞ。漆黒の写真帳ブラック・アルバムの角武がって」

「…………KWSK?」

「おっさんが無理にネット用語を使うのはやめた方がいいぞ。いたたまれなくなるだろうが。ああわかったよ。ってホント酔っぱらいはめんどくせえ。いいか『創世の魔法』は毎回シナリオライターが……」


 俺は上着のまま仕事部屋に駆け込んだ。すっかり酔いがさめた指をキーボードに走らせる。胡狼あらため宮本君に聞いた情報は正しかった。シリーズの来歴にはシナリオライターの名前が並ぶ。


 公式設定資料集を注文する。電子書籍はこういう時には便利だ。大作だけあって全部そろえると一万円を超えるが気にしない。払うのはメタグラフだ。


 『創世の魔法』シリーズを通じてのシナリオの流れを把握する。完璧と思えた最終章シナリオにかすかな空隙が見えてくる。寄せ木細工のデザインとして見えていた空白は、やむを得ず生まれた間隙だ。欠陥住宅を建てることには定評があるおれの目はごまかせない。


 いや、欠陥というのは酷だ。問題はシナリオライターじゃない。シナリオライターは用意されたテーマやコンセプトに基づいてシナリオを構築する役割だ。すべてを自分で決めることが出来る小説とそこは違う。各章でシナリオライターが違うならなおさらだ。


 問題はこの作品を、作品足らしめている柱は何かだ。アリスに説明したが、ゲームを構成する主要要素は舞台設定に込められる。テーマもコンセプトも舞台そのものに内包されている。それはシリーズを通して共通だ。


 つまり、この世界の設定を決めた人間に責任がある。最終章のストーリーに突如現れた最大の齟齬、いや無理ともいうべきもの。このシナリオ単体だったら絶対に気が付けなかったそれを作り出したのは?


 設定資料集の最初に、抱負を語っている今よりも若い小太りの男。俺が取材すべきはこの男だ。


 鳴滝にはもう一度裏通りを開いてもらおう。

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