第一章 食料戦士の名の下に 2.蛋白源を確保せよ(1)

1.南氷洋への道程

 小笠原捕鯨での実績を元に、次はより成果の見込める南氷洋捕鯨を実施したい、との声が関係者から上がり始めた。政府、特に食料を管轄する農林省(元農商務省)は、蛋白源確保の切り札として熱心にGHQに陳情している。GHQとしても、食糧危機の対策としてアメリカの余剰農産物である小麦の供給は可能なものの、蛋白質・脂肪源までは手が回らない。戦争に負けた国の国民に、これ以上自国民の税金を使った援助は出来ないのである。

 もし母船式南氷洋捕鯨を再開すれば、鯨肉は蛋白源となるし、鯨油は輸出商品となる。当時、鯨油はマーガリンや石鹸、グリセリンなどの重要な原料であり、その消費量は植物性油脂の大豆油と並んで動物性油脂の筆頭に位置していた。戦前からの絹製品程度しか輸出品のなかった日本にとって、新たな外貨獲得手段が増えることになる。


 大洋漁業はすぐに出漁を決定したが、戦前6船団の実績をもつ日本が1船団では不足として、農林省は正式申請を延ばして日本水産に出漁の意向を打診した。しかし、日水は占領政策に基づく各種の経営制限を受けており、大きな赤字を抱えていたこともあって乗り気ではない。渋る日水の経営陣に対し、農林省は鯨肉の公定価格引き上げなどで「損はさせない」と説得している。

 こうして2船団出漁の申請はGHQに受理され、昭和21年(1946)8月8日正式に出漁許可が下りた。もっとも、内諾は2ヶ月以上前に通達されており、母船の確保など準備は水面下で着々と進められていた。戦後初の南氷洋捕鯨への出漁は、戦争の傷跡癒えぬ当時の日本にとって、まさに国家再建を賭した一大事業である。出漁に要する資金は大蔵省が斡旋することに決定された。


 この流れに乗り遅れたのが極洋捕鯨である。戦前の母船式捕鯨三社の一つである極洋捕鯨は、戦争で母船を始め捕鯨船を含む保有船舶のすべてを失うという大きな痛手を負っていた。この為、終戦直後から戦争中に台風のため奄美大島の名瀬港で座礁、放棄された捕鯨母船極洋丸の引き降ろしをGHQに交渉していたが、ついに許可が下りなかった。急いで母船に適当な船舶を探したものの時すでに遅く、この年の出漁は不可能となった。


 日本の南氷洋出漁にあたっては、「敗戦国が負けて1年も経たないのに1万トン以上の大型船を建造するのは早すぎる」との反対意見がオーストラリアやノルウェー、イギリス、ニュージーランドなどから出された。日本が戦前に国際捕鯨協定に加盟しなかったことによる不信感もあったのであろうか、イギリスとノルウェーは以後平和条約締結まで毎年抗議を行い、オーストラリアは後に第一次南氷洋捕鯨に出漁した2隻の捕鯨母船を戦時賠償として要求さえした。これらの意見に対し、アメリカは「反対する国は日本向けに一千万ドルの食糧援助をしてもらいたい」と出漁を強行させた。

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