第16話 残った膳の行方

 天栄宮てんえいきゅうの長い廊下を、紫乃と花見の二人が歩く。しかし遠い。

 御膳所までの道のりが遥か遠くに感じられた。


「全く失礼な男だにゃあ」


 花見はご立腹であった。妖怪の中でも猫又妖怪は自由な気質なので、誰かに命じられるのを極端に嫌う。花見が紫乃のもとにいて手を貸してくれるのは、ひとえに紫乃の作るご飯を食べたいから。それ以上でもそれ以下でもない。

 凱嵐がいらんに意味不明な命令をされ、花見の機嫌は非常に悪かった。


「この腹の虫は、紫乃の飯を食うまで収まらないっ」

「さっき特盛の一膳食べたでしょ」

「あんなものは、ここまで走ってくる時に消化した」


 花見はびっくりするくらいの大食らいである。

 底なしの胃袋に最初は「どんだけ食べるんだ」と慄いたが、慣れてしまうとどうって事もない。おかげで十二膳、楽々用意ができたのだし、ここは花見様様だ。


「じゃあ、さっき下げた残りの六膳を食べるっていうのはどう?」

「何言ってんだにゃあ、紫乃」


 花見は首を傾げながら言う。


「あれはもう、無くなった」

「え、無くなった? どういう……」


 まさかもう捨てられてしまった? 紫乃の疑問に答える前に、花見は御膳所の建物に入り、夕餉ゆうげの料理番が詰めるくりやの戸をガラリと開ける。

 そこで待っていたのは、紫乃が思っていたのとは裏腹の光景だった。


「お、紫乃様。遅かったじゃねえか」

「紫乃様! この御膳美味しゅうございますね!」

「さすが凱嵐がいらん様がお連れになり、伴代ばんだい様が認めた腕前なだけある」


 くりやの奥にある畳敷の小上がり。そこにずらりと厨に詰める人々が座り、先ほど下げてきた前を皆でつついているではないか。

 この状況は一体。

 混乱する紫乃に説明してくれたのは、大鈴だいりんであった。


「普段は残った膳で弁当をこしらえ、役人殿に勤めるお役人様に売っております。これが結構な良い値で売れるのですよ。ですが今日は、折角新しい御料理番頭様が作ってくださいましたし……私たちくりやの者で頂こうと思った次第です」

 にっこり。大鈴は良い笑顔を浮かべた。

「ちなみに十膳ものお食事をご用意するのは、陛下が直前までどの膳を食べるか分かりにくくして毒を盛られる可能性を減らし、ついでに余った膳を私たちで頂くためでございますよ」 


 御膳所で働く人々というのは、中々にたくましい。

 余った膳で弁当をこしらえて売っているとは思いもよらなかった。

 にしても、紫乃はくりやの戸の前で立ち尽くしたまま、美味い美味いと料理を食べる人々を見つめた。美梅みうめの姿がないので、毒味番はいないのだろう。いるのは料理番と給仕番の人たちだ。

 箸を動かし、口におかずをほうり、口々に紫乃の料理を誉めそやす。


「この煮しめが絶品だな」

「俺はこのなますが好きだ」

「なんの、鯛の焼き加減が絶妙だよ」

「麦米のツヤツヤした炊き方も、俺には真似できねえ」

「私は卵豆腐が気に入ったわ」

大鈴だいりん、流石によくわかってるな。この卵豆腐は俺がどうやっても再現できなかった、まさに紅玉こうぎょく様が作ったものと瓜二つだよ」


 わいわいと膳を囲む皆に、紫乃の心にまたもやじんわりと温かいものが満たされていく。


「そーか、美味いか」

「美味いっす!」「美味しいです」という返事が笑顔と共に返ってくる。


 案外すんなり受け入れられて紫乃は驚いた。


「ま、伴代ばんだいさんが認めたものを俺らがとやかくいうもんじゃないし」


 という声が聞こえてきて、なるほどと思った。伴代に視線を向けると、ペコリと頭を下げられる。どうやら伴代は長らく御料理番頭をやっていただけあって、このくりやで働く人の心をしっかり掴んでいたらしい。

 その伴代が認めるのであれば、という心境なのだろう。

 紫乃が離れていた間、何か説き伏せてくれていたのかもしれない。


「明日はもっと、献立を考えるよ」


 どうしても毒味の後、四半刻は待つ羽目になるのだ、冷めても美味い料理を作ろう。

 すると「期待してます」という声が方々から上がった。


「さ、食い終わったら片付けだ。紫乃様、俺が教えるから片付けを覚えてくれ」

「ありがとう。でも、その様付けで呼ぶのは止めてくれないか。慣れてないから落ち着かない」

「だが、俺たちの頭だからなぁ」

「紫乃でいいよ」

「それだと他の二人の御料理番頭様にもしめしがつかないというか……」

「様付けはやめてほしい」

「なら、ねえさんでどうだ」

「はぁ?」

「いいじゃねえか、紫乃姐さん」

「よし、紫乃姐さんだ」


 伴代ばんだいを筆頭とする料理番の連中は紫乃に向かって頭を下げ、「よろしくお願いします、姐さん」「紫乃姐さん、明日から俺たちをこき使ってください」と言い出す始末である。


「じゃ、紫乃姐さん、後片付けしちまいましょう。厨の鍵を預かるのも、御料理番頭の仕事だ」


 紫乃の意見を聞かずして、三々五々に後片付けに入る。

 皿を洗うのは料理番に任せ、紫乃は伴代に全体的なくりやの説明を受けた。


「火の始末はしっかりと。天栄宮で起きる火事の九割は、御膳所ごぜんしょからの出火です。実を言うと昔、御膳所は陛下のおわす正殿の近くにあったんだが、相次ぐ火事で役人たちがすっかり警戒してしまったらしく……こんな天栄宮の外れに追いやられたらしいんですわ。

 そんなわけで、火の元が完全に消えているかどうかを確認するのは、御料理番頭の最も重要な仕事です」

「わかった」


 伴代ばんだいの言葉に紫乃はこくりと頷いた。

 火の始末に関しては母にも口を酸っぱくして言われていた。火消し壺に薪を突っ込み、きっちりと蓋をする。

 その他にも伴代は様々な手順や規則を紫乃に教え込んでいった。

 その様は、出会い頭に喧嘩をふっかけてきた男とは別人のように親切である。


「とまぁ、こんな所でございます。最後に鍵をかけたら、仕事は終了。また明日の朝に集合となるわけです」

「ありがとう」

「いえいえ、お安い御用です」


 伴代はいい笑顔で言うと、「明日の朝は、明け六つ午前六時に蔵前に集合です。そこで町から品が搬入されるので。せっかくなので調達番も紹介しますよ」と言い、紫乃にくりやの鍵を渡した。

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