10
小林透は善良な人間だが、正義感は特に強くはない。
しかし、今は必死だった。
トオルはただ、加賀から聞いて、半狂乱になっている落ちた子どもの母親や、いきなり空に落ち始めた子どものことを想像し、つい感情移入してしまったのだ。
トオルはあまり物事を深く考えるタイプの人間ではない。
努力家ではあるし、頭も悪くないが、どちらかと言うと自分の感情に振り回される、どこにでもいる当たり前の人間だ。
だから、今はただ目の前で落ち続けている子ども――もはや魔術の効果は切れかかって、ほとんど真っ当な重力に従い地上に向かって落ちつつある、グッタリと気絶した子どもをどうにか助けることだけで頭がいっぱいになっている。
このまま行けば、おそらくちょうど子どもと自分のベクトルは交差するだろう。
完璧なタイミング。
流石は加賀の
完全に0パーセントだったはずのことをやってのける。
いや、むしろ0パーセントだからこそやってのけるのだが。
(届け……ッ!!)
うんと手を伸ばす。
タイミングはほとんど一瞬。衝突の瞬間に確保しなければ、すぐに別れ別れになって子どもは地上に落ちて行ってしまうだろう。
(届け……届けッ!!)
近づいてくると、遠目で見ていた時よりもその速度は早く感じる。
(えっ、速……っ?!)
ドンッ! と想像よりも強い衝撃があり、トオルは慌てて子どもを抱きしめる。
自分が怪我をするほどの衝撃ではないが、相手は小さな子供だ。トオルは心配になった。
それにぶつかった角度が良くない。落としてしまわないように、子どもの服をギュッと握りながら、そろそろと体勢を整えて、なんとか抱っこの状態に持っていく。
ここに来てようやくトオルは安心し、ホっと息を吐いた。
「……子ども、つかまえました!」
風が酷い。
自分の声もほとんど聞こえない――にも関わらず、自分の耳にははっきりと「
確か〈電話線〉とか言ったか……オッペンハイム卿の
〈
すでにある魔術を連動させているだけだからだ。
でも、別に構わない。
と。
『やったじゃん』
阿先輩の声が耳に届いた。
耳には先輩のケークウォークが未だ流れている。
じわりと嬉しさが胸に広がる。
「あはは」
思わず笑い、そして再度コールした。
「――コール。〈
急激に風が弱くなり、一瞬風が止んだ。
そして先ほどとは逆方向に風が当たり始める。
ふわん、と腰のあたりに自由落下特有の違和感が広がる。
新たな落下が始まる。
▽
小林透の活躍は嬉しい。
子どもも助かりそうで何よりだ。
自分が今回、見るべきところがどこにもない役立たずだったことについても、特に思うところはない。
ただ、眼の前の蓄音機が鳴らすピアノが気に入らなかった。
テンポが速すぎる。
それに技術的にも未熟だ。
つまり、聴いていて恥ずかしく、しかもそれが延々リピートされている状態なのだ。
面白い気分になどなろうはずがない。
そもそも、コンクールで優勝してしまったこと自体が間違いだ。
技術的にはどうか分からないが、自分のような薄っぺらい人間の演奏が、人を感動させることなんてできない。
技術だけでいいなら、コンピュータに演奏させればいい。
もっと速く、ずっと正確だろう。
でも、たしかこの時は、なぜかスッと気持ちが切り替わって、まるで踊るかのようにケークウォークを演奏できた。
これは俺には珍しいことだった。
最初の1小節でなんだか楽しくなってしまい、観客の存在も忘れて一気に弾ききった。
曲が終わると拍手喝采だった。
その拍手でハッとして、コンクール会場の舞台にいることを思い出し、恥ずかしくなって「ど、どうも」と不器用に頭を下げて舞台袖に逃げ帰った。
しっかり着飾ったコンクール用の衣装の子どもたちが自分を見ていて、自分がだらしないTシャツ姿であることに気づき、えらく恥ずかしかったことを覚えている。
蓄音機はその時の拍手も再現していた。
(……この拍手の中に、トオルのものも含まれてるのか)
拍手はしばらく鳴り止まない。
それが収まると、また自分の稚拙な演奏が始まる。
その繰り返し。
俺は、どうにも面白くなかった。
▽
落ち始めたトオルに、すぐ後ろから声がかかった。
「やあ、調子はどうかね?」
「オッペンハイム卿?!」
後ろを見れば、紳士然としたスーツ姿のオッペンハイム卿が、直立不動の姿勢で空中に立っていた。
まるでマグリットみたいに。
「な、どうしてここに……?!」
「なに、キミのポケットにダブった
「は、はぁ……」
そのヴィネットとやらが何なのかはわからないが、とにかく座標入れ替えのためにポケットに何か入れられていたらしい。
いや、そういうことじゃない。
どうやってここに来たのかなどどうでもいい――それよりも、なぜ卿がここに来たのか、その目的の方が気になった。
「自由落下に追従しているのが気になるのかね?」
「いえ、卿のことですし、それも別に気になりませんが……それよりなぜここに?」
「それは、私が蒐集家だからだよ」
「はぁ……」
「私は、魔術院に登録されていない魔術や、他の誰も持っていないレアな魔術を集めている。生まれたての魔術、〈
「ああ、この魔術もコレクションしたい、と」
「そう。なにせ私は野良の魔術師だ。通常の手順ではアクティベートもままならない。加賀に頼めばどうにかなるが、あまり彼に借りを作りたくないのでね」
どうやら、野良の魔術師にはそれなりの苦労があるようだ。
「そういうことなら、まぁ、どうぞ。でも、別に今じゃなくとも……」
「そうはいかん。私の唯一の
「う、奪う……?」
「そうだ。
「え、なに、奪うってどういうことですか?!」
「許可ももらったことだし、遠慮はいらないな」
「えっ、ちょ、ちょっと……!?」
「さて。優秀な弟子に敬意を払い、きちんとコールしようではないか」
「待……!!」
オッペンハイム卿はニヤリと邪悪に笑った。
――コール〈蒐集〉。〈
途端、トオルの頭の中はぐちゃぐちゃになった。
さらには、ずっと耳に届いていたセンリの演奏もピタリと止まり――
「何やってんですかぁあああああーーーーーーー!!」
トオルの叫び声と一緒に、地上に向かって垂直自由落下が始まった。
▽
「あ」
と加賀が言った。
「あー、このタイミングかぁ……」
「どうしたんすか?」
「オッペンハイム卿が、小林君から〈
「は?」
「小林君、自由落下してる」
「え? その、自由落下って
「違うよ。まっすぐ地上に向かって。あと2分ほどで墜落するね」
「………は?」
……え?
▽
頭の中がぐちゃぐちゃになったのはほんの数秒のことだった。
すぐに脳は元通りになり――しかし自由落下は止まらない。
(……なんてことを……っ!!)
オッペンハイム卿。
加賀が気を許していたように見えたから、危険はないと勝手に思い込んでいた。
しかしこれでは……
(これじゃ人殺しじゃないか……ッ!)
人を殺した野良の魔術師は処分される決まりだ。
それを知らないオッペンハイム卿ではないはずだが――
もしかして、直接魔術で人を殺さなければ問題がないのでは――?!
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
地上を見れば、雲間に地上が見える――このまま行けばアスファルトの道路だか、どこかの民家だかに激突するだろう。
当然命はない。
(死にたく……ないっ……!!)
特に生きる目的があるわけでも、何か目標が決まっているわけでもないけれど、トオルは死にたいと思ったこともないし、ごく自然にまだまだ人生が続くと思っていた。
こんな形で死ぬだなんて思いもしなかった。
何の覚悟もないし、到底受け入れることはできない。
そしてトオルは、胸に抱きしめる子どもの存在を思い出した。
そうだ。自分が死ぬだけじゃない。
この子の命ももちろん――。
しかし、自由落下を止める方法はない。
自由落下とは、この世でも最も不自由なものの一つなのだ。
「卿のバカーーーーーーーーーーーーーッツ!!!!!」
悪口を言い慣れていない小林透だった。
▽
俺は慌てて立ち上がった。
「ど、どうするんすか!?」
茶ぁ飲んでる場合じゃねぇっ!!
「僕じゃどうしようもないかなぁ……使えそうな魔術がない」
「た、〈
「手の届く範囲でしか発火しない」
「じゃあトオルは……ッ」
死ぬしかないじゃん!!
「た、助けに行かないと!!」
「どこに?」
「わかんねぇけどっ! アンタ、なんでそんな平然として……」
「落ち着きたまえ」
俺が加賀に掴みかかりそうになると、テーブルの席にオッペンハイム卿が座っていた。
それも、満足げにティーカップに手を伸ばそうとしていて――
俺はノータイムでオッペンハイム卿を殴りつけた。
▽
この感覚は覚えがある。
ついさっきも思ったが、何かに近づいていく時、近くなればなるほど速度が高くなったように感じるのだ。
さきほどまで、ジワリジワリとしか近づいてこなかった地面が、今では高速で近づいてきている――。
トオルは地面に激突する直前に子どもを抱きしめ、ぐるりと自分を下にした。
そんなことをしても無駄なのは明らかだったが、トオルは自分の感情に振り回されるようなごく普通の人間だ。
無駄だろうがなんだろうが――眼の前にいる子どもを死なすまいと無駄なあがきをすることを止めようとも思わなかった。
▽
殴ったつもりだったが、なぜか全く手応えがなかった。
まるで加賀の〈
――まさか、ついさっきトオルから奪った〈
「お前ええっ! トオルをっ! よくも!!」
構わず殴りかかる。
頭に血が上る――しかし俺はどこか冷静に観察する。
〈
逆に絶対に当たらない攻撃なら100%当たる――しかし、そんなことは当然向こうも理解しているはずだ。
ならば、狙うのは50%の確率で当たる攻撃!
手数が増えればそのうち半分は当たる!
こいつだけはぶっ殺す!
俺は剣道の試合の時のように、時間を圧縮するように相手を観察し、当たるか当たらないかギリギリを狙って何度も拳を振り上げた。
だが。
「落ち着きたまえよ」
オッペンハイム卿は慌てる様子もなく、じっくりとお茶の香りを味わっている。
「これが落ち着いてられるか!!」
「何故だね?」
「何故?! 何故って言ったかお前っ!!」
「キミのような子どもにお前と呼ばれる筋合いはないな」
――違う!
これ……〈
殴っても、蹴っても、卿どころか椅子やテーブルに当たっても、何の手応えもない。
それはまるで自分が幽霊になったかのようで――そして俺はここでようやく、加賀のよこで突っ立っている俺の体に気づき、自分が霊体になっていることを知った。
ぞわりとした。
――幽体離脱魔術? あるいはすでに、俺も殺された後なのか?
(知るか、そんなもん!!)
俺は構わず、さらに拳に怒りを込めて卿を殴りつけた。
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