第21日-1 失敗の重み

 小雨がまばらに降る中、喫茶店『ノーチラス』までどうにか辿り着く。

 裏口から入ってすぐのところに、三メートル四方の休憩室のような板張りのスペースがあるのが目に入った。グラハムさんの腕を肩から下ろし板張りの上に座らせたが、眩暈がするのか身体を起こしていられず、そのまま寝転がってしまう。


 無理に起こさない方がいいだろう、とそのままにし、頭を横に振って雫を払っていると、

「あらぁ、降られちゃったのぉ?」

という声と共に表の調理場からノースさんが現れた。タオルを寄越そうとして、板張りに寝転がっているグラハムさんに目を落とす。


「あらまぁ、ずいぶんといい姿ねぇ~」

「すみません。グラハムさんの調子が戻るまで、しばらく休ませていただけないでしょうか?」

「調子? 何されたの?」

「絞め落とされただけなので怪我は無いんですが、すぐに動かせる状態でもないので……」

「ふうん……」


 ノースさんが俺の肩の向こうのグラハムさんをチラリと見る。


「しょーがないわねぇ。コレ放っておくのも、寝覚めが悪いし。好きに使いなさい。はい、タオル」

「ありがとうございます」


 お礼を言い、タオルを受け取る。二本あったうちの一本をグラハムさんの手に握らせ、

「グラハムさん、とりあえず頭だけでも拭いた方がいいですよ」

と声をかけたが、グラハムさんはタオルを握り込んだまま

「うん、後で……」

と寝言のような返事をし、そのまま動かなかった。


 グラハムさんは基本電車移動だし、この作業服のままでこの店に来た訳じゃないだろう。きっと着替えがあるんだろうが、今はそれどころじゃないようだ。

 幸い身体を冷やすほど濡れてもいないし……と思いながら、手に持っていたタオルでグラハムさんの髪や服についた水滴を拭う。


 自分の身体も拭き終わると、まずはミツルに報告しないと、といったんその場を離れた。

 裏口から再び外に出る。雨はさきほどより強くなっており、雑草が生えた裏口の地面に小さな水たまりがあちこちにできていた。落ちる雨の雫が水面を叩き、いくつもの波紋を描いている。

 空を見上げた。真夜中の空は真っ暗だが、わずかな陰影から雨雲が黒々と広がっているのがわかる。

 空と同様どんよりとした気分のまま、通信回線をONにした。


「ミツル、ノーチラスに着いた」

『追手は?』

「大丈夫、ちゃんと撒いた。それで……グラハムさんはまだ起き上がれない状態なんだ。二時間ほど休ませたいんだが」

『わかりました。それでは三時間後に局長室へ』

「了解。ここを出る前にまた連絡する」


 かなりギリギリの時間設定だ。一刻も早く調査結果を聞かせてほしい、ということだろう。

 相変わらず人使いが荒い……と思いながらも、この件に関しては確かに伝えなければいけないことが山のようにある。


 ふう、と息をつき休憩室に戻ってみると、グラハムさんは完全に眠ってしまったようだった。身体の上にかけられたブランケットらしきものが微かに上下している。ノースさんがかけてくれたのだろう。


「ちょっと! あんたも休んだら?」


 調理場からひょいっと顔を出したノースさんが「やれやれ」とでも言いたげな目を向ける。


「いえ、二時間経ったらグラハムさんを起こして移動しなければならないので」

「心配しなくても起こしてあげるわよぉ。そこにあんたの分のブランケットも置いておいたから、とにかく休みなさい」

「……はい。ありがとうございます」


 眠れるかどうかは分からないが、身体はひどく疲れている。ここはノースさんの言葉に甘えるか。

 板張りの部屋に上がり、グラハムさんから少し離れた場所に座る。斜めがけにしていたボディバックを下ろして、ふと行きとは違うその重みに気づいた。

 埃塗れの茶色い革の手帳――アロン・デルージョの手記。


 そうだ、何が書かれているかぐらい確認しておくか。あの地下室にいたと思われるアロン・デルージョは一体どうしているのか、解るかもしれない。



「あら、休めって言ったのに」


 手記を読むために明かりがついた店内に行くと、ノースさんが呆れたような顔で俺に視線を寄越し、溜息をついた。どうやら翌日の仕込みをしていたようだ。ぷぅんとブイヨンのいい香りがする。


「ちょっと調べ物があって、明かりが必要だったので」

「……社畜ね、あんたも」

「えーっと……カウンターを使わせて頂いていいでしょうか?」


 ズケッととんでもないことを言われた気がするが、気にしたら負けのような気がしてスルーする。

 ノースさんは「どうぞー」とつまらなそうに相槌を打つと、そのまま鍋の中身に視線を戻した。


 「ありがとうございます」と会釈しながら足の長い椅子に腰かける。

 なかなか解読不可能な字が並んでいるが、どうにか読める部分だけでも拾ってみよう。先に内容だけでも報告できれば、それだけ手は早く打てるはずだ。


 窓に打ちつける雨音を聞きながら、茶色い革の手帳を開いた。



   * * *



『RT理論の研究をしてくれと言ったくせに、肝心のオーパーツがロクにない。やはり自ら発掘に向かわなくては』


『ここの研究員ではまったくもって話にならない。誰もわたしのレベルにまで付いてこれないのだ』


『なぜ外に出してもらえないのか。机上の研究はただの妄想だ。綿密な実地調査があって初めて為せることなのに』


『わたしの理論が正しければ、このシャル山裾野に遺跡は広がっているはずだ』


『こんなものじゃ駄目だ。これはわたしの求めるものじゃない』


『なぜこんなところに閉じ込められたのだ。わたしは何も間違ってはいない』


『絶対だ。私は正しい。確かに時間を歪めるオーパーツは存在する』


『ここから出たい。せめてオープライトさえ見つかれば』


『既存のオーパーツじゃ駄目だ。未知のオーパーツ、未知のオープライトが眠っている』


『このままじゃO研に先を越される。駄目だ、それじゃ駄目だ!』


『これは正義のための戦いだ。わたしを否定したあいつらを見返してやるんだ!』


『わたしの理論は正しいのだ! 後は証明するだけだ!』


『くそっ、証拠を見つけるのは私だ! 誰にも渡さない! 誰にも、誰にも、誰にも……』



   * * *



 手帳の始まりから終わりまで、すべてのページに目を通す。読み取れる文字だけどうにか拾ってみたが、〈クリスタレス〉に関係がありそうなことは一切書かれていない。

 終わりの方になると字の乱れようが凄まじく、殆ど何を書いているのか分からなかった。恐らく、まともな精神状態ではなかったのではないかと思う。

 かろうじて、最後のページの日付は読み取れた。八年前だ。それ以降は、すべて白紙。


 やはり、アロン・デルージョはもういない。恐らく、もうどこにも。

 研究者として迎えられたものの、ほどなく使い物にならなくなり地下室に押し込められた。

 ……そんなところだろうか。RT理論にこだわり続けた男の、悲惨な末路。


 いや、死んだと決めつけるのは早いかもしれない。……が、少なくともサルブレア製鋼の責任者、ではないだろう。職員の台詞と言い、三〇五にあった物といい、あの男……ピートだったか、奴が護衛に付いていたことといい――マーティアス、彼女が〈クリスタレス〉研究の最高責任者だ。間違いなく。


 七年前に焼身自殺したはずのマーティアスが、サルブレア製鋼でひっそりと〈クリスタレス〉の研究をしていた。そしてその頃には、もうアロン・デルージョは研究者として必要とされていなかった。

 そう、推測できる。少なくとも、アロン・デルージョは〈クリスタレス〉の存在を知らない。もしサルブレア製鋼に来たマーティアスと接触していれば、この手記にそのことが書かれているはず。


 ふう、と息をついてパタンと手帳を閉じる。ミミズがのたくったような酷い字をずっと眺めていたせいで、ひどく目が疲れた。

 右手の親指と人差し指で眉間を揉んでいると

「結局休まなかったのねぇ、あんた」

という鋭い声が飛んできた。


 ハッとして顔を上げると、ノースさんが渋い顔をして俺を見下ろしている。背後の掛け時計を見ると、四時十五分を指していた。約束の二時間を五分過ぎている。


「コーヒーでも飲む?」

「すみません……頂きます」


 時間は気になるが、これからグラハムさんを乗せてバイクでセントラルまで戻らなければならない。眠い訳ではないが、少し頭をスッキリさせなくては。


 いつの間にか雨も止んだらしく、ノースさんが煮ているクツクツという鍋の音しかしなかった。

 ノースさんが淹れてくれたコーヒーの暖かみを感じながら、いつもよりゆっくりと飲み込み、喉を潤す。


 今回の任務は明らかに失敗……でも、焦ってもどうにもならない。

 オーラス精密が〈クリスタレス〉を違法に所持し、大掛かりな研究をしていることはわかったのだ。これからやらないといけないことはいろいろある。

 O監の介入を知った敵はどう動くか。非常事態だからこそ、館内に仕掛けた盗聴器から何か情報が拾えるかもしれない。


 そうやってどうにか気持ちの切り替えをし、コーヒーを飲み終える。

 ノースさんにお礼を言い、奥の休憩室に向かった。明かりをつけ、グラハムさんをそっと揺り起こす。

 グラハムさんは

「ああ……うん。起きるよ、リュウ」

とボヤきながら身体を起こしたが、まだあまり顔色は良くない。


「バイクで戻りますが、乗れそうですか?」

「大丈夫……多分」

「ミツルに報告する間に準備していてくださいね。着替えとか」

「ああ」


 グラハムさんが頷くのを確認し、裏口から外に出た。雨は一時的なものだったようで、すっかり止んでしまっている。夜明けまではまだ遠く、空は相変わらず暗いままだが黒い雨雲はどこかに消え、灰色の薄絹のような雲がたなびいていた。


「ミツル、お待たせ」

『……受信中。リルガの具合はどうですか?』

「一応、休めたと思う。すまない、少し遅れた」

『多少なら構いませんよ。こちらもスーザン・バルマの身元を洗う時間が必要でしたので』

「スーザン・バルマ……?」


 誰だっけ、と一瞬頭にモヤがかかったが、すぐに思い出した。確かグラハムさんの報告書に名前があった。グラハムさんが聞き取り調査をした、光学研の所長だったか。

 でも、何故その名がここで出るんだ?


『ああ、リュウライは聞いてなかったんですね』

「何を?」

『研究棟三〇五の主は、光学研の所長、スーザン・バルマだったんです』

「えっ!」


 瞬間的に、薄暗い通路で見た痩せこけた女の顔が浮かぶ。

 ちょっと待て、あれはマーティアスだ。七年前に焼身自殺したはずの、マーティアス・ロッシ。

 あのサルブレア製鋼に来て、密かに〈クリスタレス〉の研究をしていた、最高責任者だと思っていたのだが。


『何かありましたか?』

「いや……」


 咄嗟に否定の言葉が漏れて、これでは嘘の報告となってしまうことに気づく。慌てて

「そちらに着いてから報告する。少し整理したい」

と言葉を付け足した。


『わかりました。それでは後ほど』


 通信回線が切れた音を待たずに、イヤホンを耳から引っこ抜く。ヨロヨロと足がもつれたのが分かって、壁に手をついてどうにか身体を支えた。ビチャリ、と水たまりの中に足を突っ込んでしまい、泥水が湿気を含んだズボンに跳ね返る。

 黒い水滴が自分の身体の中にまで染み込んでくるような錯覚に陥り、身体がぶるりと震えた。


 死んだはずのマーティアスが生きていて、しかも表社会に戻ってきていた?

 そう言えば、サルブレア製鋼の職員が「夜にしか現れない」と言っていたか。つまり、昼は光学研究所で、何食わぬ顔で働いていたことになる。しかも、所長。こちらでも最高責任者だ。

 ミツルは身元を洗ったと言っていた。それは、洗うだけの『スーザン・バルマ』としての軌跡がちゃんと表社会にある、ということ。

 つまり……?


 スーザン・バルマ――マーティアス・ロッシの背後に巨大な漆黒の影を感じて、ゾッと背筋が寒くなった。

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