8、祝祭の街
旅人は迷っていた。
街へ入る門の横隅にしゃがみこんで、もう一体どのくらい時間がたっただろうか。街へ入って行く人、出て行く人。みな、旅人に気がつかない。祭りがあるのだろうか、街の中からは、賑やかな音楽が絶えず流れている。歩いている人たちの表情も明るい。
きっと、街の中へ入ったら楽しい。それはわかっているのに、旅人は迷っていた。目の前を通り過ぎる人たちの笑顔が、突然崩れるように変わるかもしれない。サロモンやシエナのように。
そういえば、と旅人は思い出す。煙の街にいた時、双子の子どもを連れた母親も、旅人を見て顔色を変えていた。
──近寄らないで!
──子どもに感染したら、どうするつもりなの?
旅人に対する恐れや拒絶。あの時、向けられた目を思い出しただけで、胸が裂かれたように痛い。あの時は、なんともなかったのに。なにも感じなかったのに。旅人は自分の両手をぼんやりと見つめた。
「ぼくは、病気なんだろうか?」
隣の黒猫が、身じろぎしたのが気配で伝わってくる。
「こんな、気持ちになったのは初めてだ」
「傷ついた?」
言われて、旅人は不思議に思う。
「傷? 怪我はしていないけれど」
隣にいた黒猫が、旅人の前へやって来る。
「お前の心が、傷ついたんだ」
「心が……。ああ、うん。それは、いい言葉だね。ぼくは、心が傷ついているんだ。痛くて、痛くて、どうしようもない。心がどこにあるかわからないから、手当てのしようもない」
膝を引き寄せて、重ねた腕の上に顔をのせた。なんとなく、体が重たく感じた。
「黒猫も心が傷ついたことある?」
旅人が尋ねると、黒猫は目を伏せる。
「あるよ。何度も、何度も、傷ついた」
「その時、どうしたの?」
「見ないふりするんだ。傷をみないふり。そうしたら、痛かったことなんて、忘れてしまうから」
「そういうもの?」
「そういうものさ」
旅人は手を伸ばして、黒猫の頭をなでた。耳と耳の間、少しだけ固いところを、やさしく指の腹でなでる。
「猫扱いするなよ」
言いながらも、黒猫は気持ち良さそうに目を細めている。旅人は弱々しく笑った。そうやって黒猫をなでていると、お互いの傷を共有しているような気がして、少しだけ安心出来た。
「兄ちゃん、大丈夫か? 具合でも悪いのか?」
話しかけられて、旅人はどきりとした。すぐ目の前に、よく日に焼けた肌の男と大きなお腹の女が立っていた。
「手をかそうか?」
「うちで休んでいくかい?」
顔をのぞきこまれて、ますます緊張する。助け船を出したのは、黒猫だった。
「ちょっと休んでいただけだよ。ありがとな」
「まあ! 可愛らしい猫ちゃんだこと」
女が手を叩いて喜んだ。
「それなら安心した! 今日は月光樹の祭りがあるから、あんたたちも早めに街に入るといいさ」
白い歯を見せて男が笑う。「じゃあな」と手をあげて男たちは街へと入って行った。
「月光樹の祭りだって。なんだろう? 行ってみる? どうする?」
黒猫が尋ねると旅人はうーんとうなった。迷っていた心が、好奇心によって傾きかけていることを、黒猫はもう知っていた。
「ちょっとだけ見に行く?」
言うと、旅人はうなずいた。
「ちょっとだけなら、大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。ぼくがいるじゃないか」
黒猫が威張ったように言うと、旅人は気持ちが切り替わったのか、口角を少しだけ持ち上げた。
「じゃあ、行こう」
街の門をくぐると、陽気な音楽が聞こえてきた。その音色に旅人はすっかり、先程までの迷いや不安を忘れてしまった。旅人は黒猫が踏まれないようにと抱き上げて、子どもみたいにはしゃいでまわる。
「黒猫、たくさん人がいるね! 見て! 頭の上! 花がいっぱい!」
街のアーケードや石造りの住宅の壁には、鮮やかな花が咲き乱れている。露店からは、甘い香りやスパイシーな香りが漂ってくる。ガラス瓶が心地よい音を響かせ、酒を飲みかわす声が聞こえてきた。
旅人のすぐ脇を子どもたちが、笑い声を上げてかけ抜けていく。手には、赤や黄色の風船を持っていた。あふれる人にぶつからないように、旅人は歩いた。まるで、ダンスのステップを踏むような足取りだった。
そして、旅人は気がついた。街の人たちが、胸元にブローチをつけていることに。それは、木の枝に丸い球のようなものが、いくつも付いている形をしていた。
「よお! 兄ちゃん、元気出たのか? よかった」
声がした方を見ると、先程声をかけてくれた男女が手を振っていた。人をかき分けて近づいて来る。
「顔色が悪かったから、心配していたんだ」
二人を前にして、旅人は再びどぎまぎした。
「えっと……あの……」
視線を合わせられず、目が泳いでしまう。そんな旅人の様子を見て、街に慣れていないお上りさんと勘違いしたのだろう、男は人の良さそうな顔で笑って、旅人の肩に手を回した。
「兄ちゃんさえよけりゃ、俺が祭りを案内してやるよ」
「でも」
「遠慮しないで。今日この街に来れたのは、運が言いわよ!」
女もにっこり笑った。
「俺は、エノク。妻のルツだ」
言ってから、エノクが尋ねるように旅人の顔をのぞいた。
「ぼ、ぼくは……旅人。こっちは、黒猫」
小さな声で言って、旅人はうつむいた。けれども、エノクたちは気にしない様子で、旅人の肩を叩いた。
「そうか、旅人に黒猫! 月光樹まで案内してやるよ!」
「月光樹?」
旅人が尋ねると、ルツが答えた。
「今日のお祭りに欠かせない樹よ」
これ、と言ってルツは自分の左胸につけたブローチを見せてくれた。
「月光樹は、細い幹からいくつにも枝分かれした樹なの。年に一度、新月の日に実がなるの。夜になると月光樹の実が、月のように輝いて神秘的な姿になるのよ」
「月光樹はこの街の守り樹でさ、妖精が宿る樹って言われているんだ。幸運とパワーを得ることが出来るって、俺たち小さい頃からそう信じているんだ。今日はその月光樹に実がなったから、街のみんなでお祝いしてんだ」
言ってから、エノクは「おぅい」と子どもに声をかける。するとカゴを持った子どもがエノクの元へやって来た。カゴの中には、月光樹のブローチがたくさん入っている。
「二つくれ」
子どもからブローチを受け取ると、エノクはそれを旅人の胸元につけてくれた。もう一つは、ルツが持っていたリボンにつけ、黒猫の首にかけてくれた。
「これで、完璧だな」
エノクとルツは満足そうに互いを見合って手を叩いた。旅人は胸元のブローチに触れ、それから二人の顔を見た。二人が親切にしてくれることが嬉しかった。
「ありがとう、ございます」
けれども同時に、言いようのない不安が胸の奥に残っていることも確かだった。二人の親切を避けるようにしてしまう、自分が悲しくもあった。
「月光樹の祭りは、愛を伝える祭りとも言われているんだ」
「あい?」
「月光樹の下で、言葉を交わすと永遠に結ばれるって言い伝えがあるんだ」
「永遠に、結ばれる」
首を傾げる旅人に、エノクは闊達に笑った。
「気にすることないさ! なにも、愛を伝えるのは恋人同士じゃなくていいんだ。友人や家族、なんでもありだ!」
「普段、言えないことを伝えるのよ。ほら、見て。あれが月光樹よ」
小高い丘の上に月光樹はあった。池の中ほどに、丸い小島がある。そこに月光樹は根を下ろしていた。
灰色のすべらかな幹から、まるで成功なレースのように枝が分かれている。樹を覆う葉はなく、細い枝に乳白色の丸い実がいくつもぶら下がっていた。それは、月を枝に宿しているかのようだった。
「ああ……。だから、月光樹なんだ」
月光樹の周りは、静かな音楽が流れていた。弦の細い音が静寂を縫うように、寄り添っている。小舟に乗った若い男女が、手を取り合いながら流れに身を任せているのが、あちこちで見られた。
子どもたちは、飛び石の上を跳びながら、月光樹の元へと行ったり来たりを繰り返している。月光樹の下では、誰もが手を取り合い、ささやき合っていた。
「日が暮れた頃になると、それはそれは幻想的よ」
ルツがうっとりとため息をもらした。
「ルツたちも、月光樹の下で言葉を交わしたのですか?」
旅人が尋ねると、ルツとエノクは顔を見合わせて、それから照れたように笑った。
「まあな! けど、今日は新しい家族に愛を伝えに来たのさ」
エノクはルツの肩を抱き寄せた。
「来月、生まれてくる子のために来たのよ」
ルツは自分の大きくなったお腹を、やさしくなでた。
「子ども?」
つぶやいて、旅人はルツのお腹をしげしげと眺めた。確かに、不自然なほど大きく膨らんだお腹だと思っていた。
「卵が入っているのですか?」
「え?」
ルツは驚いて目を丸くした。
旅人は、ルツがニワトリみたいに、卵をお腹に入れているのだと、そう思ったのだ。人が、お腹の中で育ち、そして生まれてくることを、旅人は知らなかった。
「悪いな。こいつは、星降る街の出身でさ。歳をとらないんだ。だから、人の誕生をよく知らない」
横から黒猫が言った。するりと自然に、黒猫が嘘をついたことが、旅人には意外だった。驚く旅人に向かって、黒猫は片目をつむってみせた。
「旅人さん、私のお腹にはね、卵じゃなくて赤ちゃんがいるのよ。初めは本当に小さな存在だったけれど、今はこのくらい大きくなったの」
ルツはまだ見ぬ子どもを両手で抱くようにして、生まれてくる子供の大きさを示す。
「お腹、触ってみる?」
旅人はうなずいた。膝を折って、ルツのお腹に目線を合わせた。触れようとして、手を止める。胸が高鳴っている。ルツを見上げると、エノクと共に微笑んでいた。
そっと、触れてみる。
思っていたより、かたい。
旅人の手のひらとルツのお腹。その繋ぎ目から、目には見えない命の温度が、まばゆい光となってあふれてくるようだった。
旅人はそっと手を離して、体の中の息を吐き出した。無意識に息を止めていたことに、その時初めて気がついた。
「命が生まれるんだ」
旅人は笑った。声に出して笑った。胸の奥からあたたかい感情が次々にわき上がって、弾けていく。
「すごい! すごいです、ルツ!」
瞳を輝かせて、旅人はルツの両手を握りしめていた。
「すごいよな! あんたも、俺も、みんなこうやって生まれたんだぜ」
「……ぼくも?」
ああ、とエノクは大きくうなずいた。旅人は首の後ろに触れた。冷たい感触が、そこにはある。
ぼくも、誰かから生まれたのだろうか。
──それは、製造番号だろ。
かつて黒猫に言われたことを、突然思い出して、旅人の胸が痛んだ。
「俺たちは、小舟に乗って月光樹まで行くが、あんたたちはどうする? 一緒に乗っていくか?」
旅人は黙って首を横に振った。
「そうか。 次またこの街に寄ることがあったら、俺んちに来いよ。そん時は、あんたの旅の話しをゆっくり聞かせてくれ」
エノクの大きい手が、旅人の頭に触れた。それは一瞬の出来事だったけれど、旅人の喉の奥の方を熱くさせた。頭をなでられたのは、旅人の人生で、初めてのことだった。
エノクとルツを乗せた小舟が、離れようとしている。その縁をつかんで、旅人は止めた。
「あの。ありがとうございました」
旅人を心配して声をかけてくれたこと、街の中を案内してくれたこと、命が宿ることを教えてくれたこと、話しを聞きたいと言ってくれたこと。全てを言葉にしたかったけれど、それが出来なくて旅人は、深く頭を下げた。
「お祭り、楽しんでね」
ルツの声がした。「はい」とうなずいて、二人の乗った小舟を旅人がやさしく押した。
「またな」
エノクが手を振った。旅人も手を振り返した。
「さよなら」ではなく「またな」と言ってくれたことが嬉しかった。初めは小さく、けれどもやがて大きく手を旅人は振った。離れていく、エノクたちに見えるように。
「そろそろ、ぼくたちも行こうか」
夜がやって来たころ、黒猫が行った。ルツが言ったとおり、日が暮れたころの月光樹は幻想的だった。池の周りにランタンが灯され、月光樹が池に映っている。
月のない夜に、月光樹の実が呼吸をするような光を放ちはじめた。淡くやさしい光は、月光樹の下を照らし出す。その場所だけが、まるで祝福されているように明るかった。
旅人は黒猫を抱いて、飛び石の上に降り立った。同じようにして、飛び石を渡って月光樹の元まで行く人たちの行列が出来ている。一つ、一つと飛び石を越えるたびに、旅人の足元から波紋が広がっていった。小さな波は、やがて月光樹のある小島へと打ち寄せる。
ちゃぷん、と音が聞こえた。
月光樹の下には、たくさんの人がいるのに、水の音が響くほど静かだった。人々は寄り添いながら、ささやき合っている。
「綺麗だ」
月光樹を見上げながら、旅人はつぶやいた。月光樹の丸い実が淡く輝いて、小さな月を手にしているような気分になる。
「この下で、言葉を交わせばいいんだよね?」
旅人が尋ねると、黒猫がくつくつと笑った。
「ぼくになにか言いたいことあるの?」
うーん、と考えて旅人は首をひねった。
「普段言えないことを伝える、か。あるかなぁ。黒猫は? ぼくに普段言えないこと、ある?」
「そうだなぁ」
黒猫は目を閉じて考える。
「せっかくここまで来たのだから、なにか黒猫に伝えたいな」
そうだ、と旅人は嬉しそうに言った。
「一言ずつ、お互いに言うのはどう?」
「はあ?」
黒猫はしっぽを大きく一振りした。
「ね、お願い」
旅人が頼みこむと、黒猫は渋々と言った様に「わかったよ」と言った。
「じゃあ、黒猫から」
「ぼくからかよ」
文句を垂れながら黒猫は旅人を見た。プレゼントを前にした子どもみたいに、目を輝かせて黒猫の言葉を待っている。
旅人に普段言えないこと、本当は言わなきゃいけないことは、実はたくさんある。けれども、どれも今伝えるべきではないのは、黒猫が一番わかっていた。だから、黒猫がずっと、ずっと前から思っていたことを言うことにした。
「──に、しないでくれ」
「え? なに?」
黒猫の言葉は、とても小さくて旅人の耳には届かなかった。
「もう一回。ぼくの声より小さくて聞こえなかったよ」
黒猫はニヤリと笑う。聞こえないように、つぶやいたのだ。聞こえないほうが、その方がいい。
「ぼくは、言ったよ。ほら、お前の番だよ」
勝ち誇ったように黒猫が言うと、唇をとんがらせた旅人が、不服そうな顔をした。
「じゃあ……言うね」
旅人は黒猫の瞳を見つめた。黄色と青色の瞳。煙の街にいた時、初めて見た光の色と旅人が外へ出るきっかけとなった絵本『十二月のラピスラズリ』の猫と同じ色の青。
「ぼくとずっと一緒にいてよ、黒猫」
細くなっていた黒猫の瞳が、大きく月みたいに丸く開かれていく。
「あの時、ぼくを外の世界に誘ってくれて、ありがとう。ぼくはあまり言葉を知らないから、上手く伝えられないけれど。何者かわからないぼくに、この世界の名前を教えてくれて、ありがとう。友達になってくれて、ありがとう」
月光樹の下で、旅人はきらきらと輝いていた。旅人の輪郭に金の粉がついているように見えて、黒猫はまぶしかった。
「お前……」
黒猫は口を開いて、一瞬の間、言うべき言葉を探した。けれども、その言葉を飲みこんで、くすりと笑った。
「全然、一言じゃないじゃないか」
確かに、と神妙な顔でつぶやいた旅人を見て、黒猫は吹き出してしまった。声を上げて笑い転げる黒猫を見るのは初めてだったので、旅人もなんだかおかしくなって一緒に笑った。
その時、夜空に鮮やかな灯りが咲いた。街の方から、花火が上がったようだ。それを合図に軽快な音楽が聞こえてくる。誰かが「はじまった」と声を上げると、月光樹の元からみなが離れ始めた。
「ぼくたちも行ってみよう!」
旅人と黒猫はかけ出した。飛び石の上をぴょんと跳ねる。足取りは軽かった。最後の飛び石を渡った時、黒猫は月光樹を振り返った。真っ暗な夜の中に、その場所だけ切り取ったように明るい樹。
もし、と黒猫は思う。
もし、月光樹の言い伝えが本当ならば、この関係を繋ぎ止めて欲しい。だから、祈る様にこうつぶやいたのだ。
「ひとりぼっちに、しないでくれ」と。
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