東京大空襲<承> 8
“Julia Elizabeth Wells”
外人の少女は訝し気な目でスケッチブックを見た後で口を開きゆっくりと発音した。
そこには生真面目な表情の少女がいる。
聡明なたちなのだろう。
英語を話さない僕とスケッチブックの関係を素早く理解した様子が見て取れた。
僕は彼女を指さし「ジュリア」。
犬を指さし「スケベ」。
自分を指さし「まどか」と声に出して見た。
ジュリアはちょっと目を見開いて驚くそぶりを見せた。
多分最初は僕が聾唖者だと思っていたのだろう。
だが次の瞬間、単に僕が英語を理解できないだけと察した様だった。
僕は続けてページをめくり、昨夜描いておいた紙芝居風の絵物語を見せた。
そうして身振りと手振りを交え、この場所に至った経緯を説明した。
自分の家から林に昆虫採集に来たこと。
トンネルを見つけてここに辿り着いたこと。
気を失ってしまったこと。
スケベに顔を舐められ、そしてジュリアに
出会ったこと。
一晩考えて、またこの場所に来たこと。
頭の回転が良い人間と話していると会話の流れが早くて深い。
ジュリアの察しの良さと理解力は、僕の稚拙な説明を見事に了解してのけた。
一通り僕が物語を終えると、ジュリアはスケッチブックと色鉛筆を寄こせと僕に催促した。
ジュリアの絵は結して上手とは言えない。
けれども大切なポイントがきちんと押さえられている。
その上、物事の特徴を強調するデフォルメが非常に巧みだった。
例えばジュリアにはジョンと言う名の弟がいる。
ジョンは茶色っぽい頭髪と灰色の瞳を持っている。
彼にはそばかすが沢山ある事すら、絵を見て一目でわかった。
ジュリアは母親や弟と共に、親戚の家なのだろうか。
六人家族の大きな住まいに同居している様だった。
ジュリアの家族三人と他の六人は明確に描き分けられていた。
ジュリアの家族三人は多色で、後の六人は単色で描かれた。
いま思えば、両家族の間には何か複雑な関係があったのかもしれない。
ジュリアが昨日僕と出会った経緯は、毎朝の習慣と成っているスケベとの散歩にあった。
散歩のコースが偶然この場所を通っていたわけだ。
僕を見つけたジュリアが驚くさまを描いた絵は真に迫るものだった。
僕はそれを見て思わず声を上げて笑ってしまった。
自分の絵で僕の感情を揺らすことができてジュリアも嬉しかったのだろう。
胸を張ってウインクしてきた。
僕もなんだかとても嬉しくなってしまい、お菓子のことを思い出した。
早速、野戦バッグから不二家のポップキャンデーオレンジ味を二本取り出した。
一本を彼女に渡し、もう一本はセロハンを剥がして僕が口に含んで見せた。
ジュリアはそれがお菓子であると直ぐに分かり、ためらいなく包みを剥いて口に含んだ。
それからはちょっとした騒ぎだった。
ジュリアは満面の笑みで、ときおりポップキャンデーを口から出して何やら英語でまくし立てていた。
チョー美味しいとか激ウマとか何とか言っていたのだろう。
今時キャンデーなど珍しくも無い。
僕的お菓子ランキングから言えば不二家のポップキャンデーはベビースターラーメンより下位だった。
それを思うと彼女のはしゃぎようは少し意外だった。
ふたりで一頻り盛り上がった後で、遠くからジュリアを呼ぶ声が聞こえた。
ジュリアはまだキャンデーの棒を咥えていたけれど、ハッと目を見開いて少し悲し気な表情を見せた。
僕は慌ててスケッチブックを開いた。
ジュリアの描いた弟君を指さしてポップキャンデーをもう二本取り出した。
もちろん一本は君にと言うジェスチャーも忘れなかった。
スケベがジュリアを促すようにひと言吠えると、彼女は僕の頬にキスをして走り去った。
ジュリアは森の入り口で一度、名残惜しそうにこちらを振り返った。
“See you later, Madoca.”
大きく手を振るジュリアの満面の笑みが眩しかった。
僕は生まれてこの方、姉以外にはキスなどされたことが無かった。
時が止まったか、あるいはカーボンフリーズを掛けられたかのように、僕は固まってしまったのだった。
固まっている間は多分呼吸も止まっていたと思う。
しばらくして恐る恐る頬に手を当てると全身が熱くなってドッと汗が吹き出すのが分かった。
僕は野戦バッグをひっつかむと自分でも訳の分からない奇声を発しながらトンネルに飛び込んだ。
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