第5話「黒と翡翠の瞳」

「ラスティア様、もう行かなくては……」

 ややあって、レリウスが声をかけた。


 ラスティアはしばらくの間彼女自身がエルダと呼んだその像を見つめていたが(エルダ……どこかで聞いたような気がする)、やがて静かにうなずくと、これ以上ないくらい静かに、そして丁寧に、少女の体を横たえた。


「窮地を救ってくれたうえ、ここまで連れて来ていただき、本当にありがとうございます」


 ふらりと立ち上がったラスティアから突然礼を言われ、シンは面食らった。


「いや、おれはなにも」慌てて首を左右に振る。


「私たちはこの場を離れます。先ほどの襲撃者たちが再び追ってくるかもしれません。あなたの……その力を、まざまざと見せつけられてすぐに引き返してくるということは考えづらいですが」

 言いながら、何かを思い出したかのように表情を強張こわばらせる。


「早く逃げるに越したことはありません」レリウスが場を取り持つようにして素早くうなずく。「幸い、あそこにまだ使えそうな馬車が」


 レリウスが指さす方を見ると、場違いなほど落ち着いた馬が四頭、荷台に繋がれたままぶるぶると首を振っていた。


 実物を見るのはシンも初めてだった。ここへ来てからというもの、目に映るすべてが今までの日常とかけ離れすぎていた。あまりにも異常なことばかりで、その一つひとつにまで気が留まらなくなってしまっていた。


「ええ、急ぎましょう。それでその、あなたは……」

「よければ、私たちと共に来てはいただけないでしょうか」

 ラスティアが驚きに満ちた表情で隣のレリウスを見上げる。


「命の恩人を放って立ち去るなどと、アルゴードの名が許さない」


 レリウスの申し出に驚きながらも、これまでの出来事と周囲の状況に内心気が気ではなかったシンは、一も二もなくうなずいた。

「助かります、すごく。これからどうすればいいか、全然わからなくて」


 気を使って申し出てくれた、というわけではなさそうだった。どういうわけかラスティアとレリウスの顔には安堵の色がありありと浮かんでいた。


 こんな得体の知れないやつと一瞬たりとも一緒にいたくない。そう思われていないことに心底ほっとした。


「そうと決まれば急ぎましょう。お互い聞きたいことは山ほどあるでしょうが、詳しい話はまたあとに」


 シンはラスティアに肩を貸し、馬車のある場所まで歩いた。前を行くレリウスもまだ足取りが怪しかったが、助けを借りようとする素振りは一切見せなかった。


「道中最低限必要な荷だけ残し、お二人の休める場所を空けます。なるべく急ぐ身です、少しでも軽い方がいい」

 レリウスが荷台を覗き込みながら口にする。


 シンはラスティアを太い樹の幹に寄りかからせるようにして座らせると、すぐにレリウスのもとへ向かった。


「指示してください、俺がやります」

 何も言わないとはいえ、明らかに負傷しているレリウスを働かせてぼうっと突っ立ていることはできなかった。


「ありがたい。さすがに今のこの体では、なんとも急ぎようがない」

 いくぶん表情を崩したレリウスに変わって荷台へと乗り込み、レリウスの言葉に従って荷を下ろし始める。

「一人では難しいものもあるだろう」


「気にしないでください。なんだかすごく体が軽くて、重いって感覚がなくなってしまった気がするんです。自分でも無気味なくらい」

「……本当に、ふがいない」


 そう言ってレリウスはシンの横にたたずみ、道に沿うようにして倒れている大勢の亡骸をじっと眺めていた。


 レリウスよりよほど辛そうに見えたのがラスティアだった。先ほどからずっと目を閉じたまま、意識をなくしているようにも見えた。レリウスが頻回に声をかけるが、そのたびに「大丈夫」と小さくうなずくのみだった。そのまま二度と目を開けてくれないのではないかと、シンも気が気ではなかった。


 最後の荷を下ろし終え、足早にラスティアのもとへ向かう。


「用意できたよ」

「助かります」

 絞り出すような声だった。


「あの……よければ、このまま俺が運んじゃっても?」

「……お願いできますか」

 ラスティアは一瞬ためらったのち、こくんとうなずいて見せた。よほど辛いのだろう。

 シンはおずおずと身をかがめると、ラスティアの背中と膝裏に腕を伸ばし、そのまま抱えるようにして立ち上がった。ラスティアの腕が軽く首に回されたとき、場違いにもどきりとした。


 ラスティアの体は、羽毛のように軽かった。しかし実際にはそんなはずがない。彼女はシンが見惚れてしまいそうになるほど非の打ちどころがない、均整のとれた体形をしていたが、単に細身というわけでもなかった。


(これも、自分の体に起きている不思議な現象のせいなのか)


 先ほどの荷台までラスティアを運ぶと、レリウスが敷いてくれていた布の上にそっとラスティアを横たえ、毛布をかけた。


「ありがとう」


 ラスティアが目を閉じたまま言った。

 すぐ横ではレリウスが頭部から顔面にかけて止血のための布を巻いていた。


「大丈夫なんですか」

 シンが聞くと、レリウスは薄く笑ってうなずいた。


「念のためさ。私もアインズ騎士の端くれだ、この程度の傷など何の問題もない。かなり揺れるかと思うがこの森を抜けさえすればひとまず安心だろう――準備はいいかな?」


 ラスティアが首を微かに上下させた。それを見てシンがレリウスへ頷いてみせる。

 御者席に座ったレリウスが前方を向き直り、はいや! という掛け声とともに手綱を振るった。

 想像以上の揺れに驚き、シンは咄嗟とっさにラスティアを見た。


 シンには、彼女がどうしてこれほど衰弱しているのかわからなかった。確かにいたるところに血が付着しているが、レリウスのような大きな傷も見当たらず、どこか痛がるという様子でもない。


 不安に思いながら見つめていると、彼女の両肩が微かに震えていることに気づいた。


「寒い?」

 ラスティアは薄く目を開け、首を横に振った。


「……今になって、怖くなったんです」

 言いながら、両手でゆっくりと自分の二の腕のあたりをさするようにした。


「当然だよ。あんな光景見たら誰だって――」

 しかしラスティアは再び首を振った。


「そうではないんです……人の死も、人を殺めるのも、初めてじゃないから。ただ……あんなふうに身を汚されそうになったのは、初めてで」


 そこまで言われてようやくシンは、この少女が大勢の男たちに何をされそうになっていたかを思いだした。


「あんな――」

 ラスティアはそのまま押し黙り、再び目を閉じた。


 ラスティアというこの少女は、自分の身と、そしてレリウスを守るために躊躇ちゅうちょなく相手の命を奪った人間だ。シンは確かに、その姿を見ていた。だが、そのときの姿と今の彼女とを結びつけることがどうしてもできなかった。


 何も言えないままラスティアの横顔を眺めていると、その視線を感じとったのか、もう一度目を開き、シンへと視線を向けた。


「あなたはいったい、どうしてあの場へ……? いったいどうやって、私たちのもとへ来てくれたの……?」

「それが……わからないんだよ。なにも」


 シンが首を振りながら答えた。気を抜くと疑問ばかりで頭が破裂しそうになる。

 ラスティアはしばらくのあいだじっとシンを見つめていたが、やがてぽつりと口にした。


「あなたのその瞳、吸い込まれてしまいそうな黒……はじめてみた」


 お互い様だよ。シンはすぐに眠りの中へと落ちていったラスティアに対し、そうつぶやいた。


 君みたいな綺麗な人――そんな、翡翠の宝石みたいな瞳を持つ人なんて、生まれてこのかた見たことがない。


 だからこそ余計、これが現実の出来事だなんて思えなかったんだ。

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