君と物語（イセカイ）を自由に生きてゆくための冴えたやり方【第一部完結】

第６話「エルダストリー」

　夢も見ない、深い眠りについていた。

　そのせいだろうか。シンは目を覚ましたとき、今見ている景色こそ夢のはじまりだと思った。

「気がつかれたかな」

　彫の深い、精悍（せいかん）な顔つきをした男がこちらを眺めていた。普段シンが見慣れている大人たちとはまるで違う、明らかに別の人種と思わしき顔が。

　御者席で手綱を握っていたはずのレリウスだった。いつのまにか荷台へと移り、シンの向かい側に座り込んでいたのだ。

　思わず腰を上げてしまいそうになったが、すぐ隣で眠っているラスティアに気づき、固まる。蒼白な表情は変わらなかったが、わずかに上下する胸のふくらみだけが彼女が確かに生きているということを教えてくれていた。

「この子は、大丈夫なんですか」

「強いお人だ。きっと大丈夫だろう」

　レリウスの力強い言葉にうながされ、自然とシンもうなずいた。

「あの、ここは？」

「エリオ平原に入ったところだよ。もうすぐ行けば、ザナトスの街が見えてくるはずだ。今はそこを目指してる途中だよ」

　案の定と言うべきか、さっぱり理解できなかった。恐るおそる荷台の布から顔を覗かせてみると、目に突き刺ささるような朝陽が目に飛び込んできた。

　まばゆいばかりの緑の大地が、どこまでも続いている。心地よい冷気が頬をなでていく。すぐそばでは四頭の馬がその立派な体躯からもくもくと湯気を出していた。

「どうにか無事、森は抜けたよ」

　言いながら、レリウスがぐったりと背中を預ける。

　頭部に巻かれた布と固まった血液が、決して軽傷ではないレリウスの状態を物語っていた。そんななか夜が明けるまで移動し続け、体を休めたあとも一睡もしないままシンとラスティア見守ってくれていたのだろう。

「すみません、眠ってしまって」

　シンが頭を下げると、レリウスは力無く微笑むようにして首を振った。

「むしろ安心したよ。ラスティア様の横で子供のように眠る君を見てね。失礼ながら、これは大丈夫だろう、と」

「大丈夫？」

「君はあの襲撃者たちを――あのベイルという男をいともたやすく撃退した。しかも、到底信じがたい方法で私たちの前に現れて、ね」

「……おれにも、何がなんだかわからないんです」

「わからない？」

　シンはうつむくようにうなずいた。

「おれ――ぼくは、こことはまったく違う場所、世界にいたはずなんです」

「違う世界？」

「信じられないでしょうけど、僕にとってここはまるで見たこともない場所で、あなたたちのような人たちは……僕のいた世界にはきっといないと思います」

「それは、どういう意味かな」

「あんなふうに人を襲ったり、殺したり、殺されたりはしないっていうか」

「まさか、君のいた地ではまったく争いがないとでも？」

「いえ、そういうわけではなくて――」

　なんと説明していいかわからず、額に手を当てる。

　シンが顔を歪ませるようにして考え込んでいると、レリウスは軽く目を閉じて何事かをささやいた。

「え？」

「いま、エルダへの感謝の祈りを唱えたんだ」

　どういう意味かと、シンは眉をひそめた。

「文字通り空から降ってきた君だ。きっと我々の理解が及ばないような、そんな存在なのだろう。それにその漆黒の髪と瞳、顔の造りに至るまで、まるで見たことのない外見をしている。一目見ただけで君がここらの人間でないことくらい簡単にわかる。となれば考えられることはただひとつ、エルダが我々のもとに君を導いてくれたということだ」

「そんな」シンは言葉に詰まった。

「命を救われた私は――きっとラスティア様もだが――いくら感謝してもしきれない。君がどんな人間であろうと、私たちが信じるにはその事実だけで十分だ」

　力強い言葉でそう断言され、それ以上何も言えなくなってしまった。

「ここは……どういった場所、世界？ なんでしょうか」

　代わりにシンは、これまで知りたくて仕方なかったことを口にした。

「おそらく君が知りたいのは、単なる国や地名のことではないだろう？」

　シンは黙ってうなずいた。

「……ここは、光の創造主エルダが造りたもうた世界、エルダストリーだ」

　ゆっくりうなずくようにして説明するレリウスを見て、シンは今度こそ言葉を失った。

　エルダストリー、それは以前シンが夢中になって読んだ本（・）の（・）名（・）だったはずだ。そしてその中に登場する創造主とされる者の名も、まったく同じだ。

　そんな――そんな馬鹿な話があるか。

　シンの思いとは裏腹に、今まで目にしてきた光景と物語の中の世界観が、カチリという音を立てながら重なっていくような気がした。

　どんなことでもいい、少しでも情報が欲しかった。シンは真っ先に思いついた疑問を聞いた。

「あなたたちは、どうして襲われていたんですか」

　そこに何か理由があるのかもしれないと思った。この世界に来て、まるで引き寄せられるかのようにたどり着いたのがラスティアとレリウスのいる場所だったからだ。

「いくつか思い当たる節がないでもないが、今はまだわからない。しかし奴らがラスティア様の命を狙っていたことだけは確かだ……ただの野盗なら苦にもしなかったが、恐ろしく手練れた連中だった。中でもあのベイルと呼ばれていた男、私の兵をものともしなかった……ラスティア様がいなければ私も生き残れなかっただろう。もちろん、最終的に救ってくれたのは君だが」

「そんなことは」

　シン自身、いったいなぜ自分があんな物騒な男たちを撃退できたのか、まったくわからなかった。わかっていることといえば、頭に響いたあの＜声＞がシンに何かをしてきたということだけだ。

　シンは自分自身のことについてなんら説明することもできず、結局黙っていることしかできなかった。

「これから先のことなんだが」

　レリウスはそんなシンに気を遣うようにしながら、少し言い淀むようにしながら続けた。

「私はぜひ君にオルタナまで来てもらいたいと考えているのだが、構わなかっただろうか。そもそも今回の道中も、ラスティア様をオルタナへお連れする途中でね」

　オルタナ……まるで知らない地名を聞くたびに、自分がたった一人、とんでもない場所へ来てしまったことを思い知らされる。

　シンが読んだエルダストリーという物語の中には、レリウスやラスティアという名はもちろん、エリオ平原やいま向かっているというザナトスという街も、オルタナという場所のことも出てこなかったはずだ。少なくとも、シンの記憶にはないものばかりだった。

「どうだろうか、シン」

　伺うようなレリウスの言葉に、シンはゆっくりとうなずいた。

「助かります、本当に」

　行く宛なんて、どこにもなかった。

「おお、ありがたい」レリウスの顔に笑みが広がった。「そうだ名は、なんというのかな。私としたことが、そんなことすら聞いていないとは」

　シンはあたりまえのように自分の名を名乗ろうとした。だが――

　どういうわけか、息が詰まったように言葉が出てこない。自分の名を口にしてしまうことにとてつもない抵抗を覚えた。

　意味がわからない。まるでもう一人の自分が全力で拒否しているかのようだった。

　どうしようもなくなり、「シンです」と、ただそれだけを口にした。

「シン……他に自身の家や所属を表すような名は？」

「すみません、どうしてか口にしたくないんです」

　それがなぜなのかまるでわからず、混乱した。

　レリウスは一瞬眉をひそめたが、すぐにうなずいた。

「シン、か。なんとも聞きなれぬ、めずらしい名だ……できればで構わないのだが、ああして私たちの目の前に現れるまでのことを、詳しく教えてはてくれないだろうか」

　シンはその穏やかな言葉に促され、一気に話しはじめた。

　いつも通りの一日を過ごし、なんとなく眺めていた外の景色から一転、気づけばこの世界の空を飛んでいたこと。そして、ラスティアの姿が視界に映り込み、わけのわからない焦燥感に追い立てられるようにあの場へ駆け付けた、ということを。

　夢以外の何ものでもないような話だった。だが、たとえ理解されなかったとしても、誰かに聞いてほしくて仕方がなかった。

「気づけば空を……か」

　それでもレリウスは笑い飛ばすようなことなど一切せず、むしろ極めて神妙そうな顔でシンの話に聞き入っていた。

「自分で言っていても、信じられません」

「いや、信じるも信じないもない。何度も言うが、君はその言葉どおり空から降ってきて、奇跡のように私たちを助けてくれたんだからね」

「こんな馬鹿げた話を真剣に聞いてくれて、その……ありがとうございます」

　すべてを受け入れてくれるようなレリウスの態度に、心底救われたような気がした。

「そう言ってもらえると私も嬉しい。それはともかくとして、少し頼まれてくれないか」

「なんですか？」

「このまま街道を南へ進むと、さっき話したザナトスという街が見えて来る。交易の要所ともなっているここらで最も大きな街だ。そこまで一気にたどり着いてしまいたいのだが、さすがに体が音を上げてしまってね……少しばかり横になりたいのだが、見張りをお願いできるだろうか」

　見張り――シンの身体に緊張が走る。

「シンが撃退してくれたときの惨状を思い返すとおそらく大丈夫とは思うのだが……何者かが現れるようであれば知らせて欲しいんだ」

　見過ごしてしまっては大変なことになる。シンは一瞬断ろうとしたが、傷だらけのレリウスを前にしてそんなことはできなかった。いくらこうして問題なく話ができているとはいえ、すでに疲労の色がありありと伺えた。

　シンはゴクリと唾を飲み込みながらうなずいた。

「わかりました、後ろの――あの森の方を見ていればいいですか」

　シンは荷台の後方へ移動し、おそらく自分たちがやって来たであろう、今はかなり遠くに見える深い森を指差した。

「ああ、何かが近づいてきたら――少しでも異変を感じたら、すぐに起こして欲しい」

「異変っていうのは」

　シンが振り返ったとき、すでにレリウスの意識は途切れ、深い眠りに入っていた。どれほど無理を重ねていたのか容易に想像がついた。

　一人になったシンは、自分にかけられていた毛布でレリウスの全身を包むと、荷台に身を隠すようにしながら後方の森をじっと見つめ続けた。

　そうすれば、悪意を持つ者たちから身を隠せるとでもいうかのように。