ルエガー大農園④




 ——ルエガー大農園 大広間前の庭。


「アオダモの葉はな、ほら、裏を見るとブツブツがあるだろ? これは菌なんだ。このまま落ち葉になって、ほっとかれると木が病気になっちまう」


 数枚の落ち葉を掌にのせた庭師は、そう云うとよれよれの一枚を指で摘んだ。

 

 アッシュ・グラントと思しき男はふらふらと庭にやって来ては終始、庭師の丁寧な仕事ぶりを遠目から眺めていた。何を訊ねられる訳でもなく、じっと見られているのが居心地の悪い庭師は堪らず「見たいならもっとこっちに来な!」とアッシュに声をかけたのだ。


「菌?」

 アッシュは目をパチクリさせ庭師から葉を受け取ると、表や裏に光を透かせ珍しそうに観察をした。黄土色の枯葉となった葉を光に透かして見る。枯れて朽ちた箇所から光が溢れる以外はとくに気になる部分はなかった。

 裏返しにすると、よれた太い葉脈ようみゃくと網目状の細いそれが、すっかりくたびれている。よく見れば網目状の葉脈ようみゃくに、不自然なほどに鮮やかな白い斑点が見つかった。


「そう、それが菌だよ。ん? 菌がわからないって話じゃないよな?」

「あ、はい。それはわかります。木も病気になるのですね」

「ああ、そうだぜ。でもまあな菌だって生きている訳だ。こいつらは木から養分もらって生きているからな。必死なのだろうよ。それを俺達は病気だと云って取り除く。どうなんだろうな、俺達ももしかしたら、この大地にとっては病理なのかも知れないのにな」

「確かに——」

 なぜだろうか庭師の話は、それを聞くアッシュの心に留まり何か考えさせられるようだった。庭師の言葉はつまり命のことわりを人が——


 わーはっはっは!


 庭師の言葉へ神妙な面持ちをしたアッシュが想いに耽ると、豪快な笑い声がそれを遮った。ギョッとしたアッシュは「あ、ああ、すみません」と庭師を置いて想いに耽ったことを謝る。庭師はとんと気にしていない様子でアッシュの背中をバンバンと叩いて見せた。


「なんだなんだ、そんな神妙になる必要がどこにあるってんだよ! お、そうだ、集めた枯葉は向こうで燃やすんだ。そんとき一緒に芋も焼いて喰うんだ。お前も来るか?」

「芋を焼く?」

「おうよ。庭の手入れが羊の刻には終わるからな、猿の頃またこの辺りに来いよ」

「——羊? 猿?」

「なんだなんだ、芋も時間もわからないのか」

「すみません、あ、いや大丈夫です思い出しました。猿の刻ですね。お誘いありがとうございます」

「思い出した?  面白い奴だな! まあ、良いか! また後でな」

 やっぱり豪快な笑い声をあげ庭師は落ち葉をこんもり積み込んだ手押し車を押しその場を離れていった。

 

 アッシュは小さいけれども大きな背中が建物の影に隠れるまで、じっと見送った。

(なんだなんだ、芋も時間もわからないのか)

(面白い奴だな!)


 確かに瞬時に、庭師が口にした言葉の意味が分からなかった。何度か言葉が頭の中で繰り返されると、頭の奥に備え付けられた本棚がそれにまつわる文献が引っ張りだし意味を伝えてくる。その度に頭の中を何かが打ち付けてくるから、いくばくか顔を歪めるのだ。そんな表情がどうも神妙な面持ちに思わせたのかも知れない。


「さるのこく、猿の刻……と」

 今は朝——なのだよな? と陽の光の強さを確かめアッシュは借り受けた外套の前を閉め直した。ふと横を見れば大きな六枚の大きな硝子の向こうで、くるんとした癖毛のアドルフが腰をかけている姿が見えた。その向かいには——まだ紹介をされていない、随分と体格の良い金髪の男性が座っている。


(何を話しているのだろう?)

 じっとそちらを見つめてみたが、アドルフはこちらに気がつく様子はなかった。

(そういえば、あのおっかない赤髪の女性はどうしたのだろう)

 ぼんやりとそんなことを考えながらアッシュは、頭上をフと横切った影に気がつき空を仰ぎみた。


(ん? あれが今横切ったのかな? にしては——)

 随分と高いところに豆粒ほどの黒い影が見えた。額に手を掲げてみるが、その姿はぼんやりとしていた。

(鳥?)

 なぜだろうか、その豆粒ほどの影に気を取られ、目を放すことができないアッシュは暫くそうやってそれを追いかけた。

(あれ? 降りてきたか?)

 豆粒ほどだった影は何度かの瞬きの後に、だんだんとその姿がわかるくらいの大きさになった。急速に変わるその様子へアッシュは少なからず不安を覚えた。かぶりを振るってもう一度、空を眺めてみる。するとどうだろう、それは一羽の黒い鳥だということが分かる程まで降りて来たのだ。でもだ。それは逆さまに翔んでいるようなのだ。


(え? 逆さま? あれは鳥?)

 不思議な光景だった。

 澄み渡った冬の朝空。薄青のキャンバスに落ちた一点の黒い絵の具のようだったそれが何か分かると、驚くことに鳥は背をこちらに向け羽ばたいているのだ。目を何度か擦って見直すが、やっぱりそうなのだ。


「あー! 居た居た! アッシュ、寒くない?」


 まったく虚をつくように声をかけたのはリリーだった。先程、外套を渡してくれたのもこの女性だ。

 背中ほどあるであろう金髪を上でまとめ、この辺りで見かける農夫達と同じような作業着を着た彼女は、この館の主人の妻なのだそうだ。気さくで気立ての良いフロン人。

 アドルフから簡単に紹介はされてはいたが咄嗟に名前が出せなかった。なので「あ、はい。大丈夫です」と、ぼんやりと答えたアッシュは「お借りした外套が暖かくて陽の中にいると寒さを忘れてしまいます」と外套の襟元をパタパタとしてみせた。


「そう、ならよかった。ところで何を見ていたの?」

「ええ、あの黒い鳥を——」

「鳥? このあたりだと、カッコウやら啄木鳥きつつきあたりかしら?」

「どうでしょうか? 僕にはよく分からないのですが気になってしまって」

「そう。ってどこにも見えないわよ」

「え? あの逆さまに翔んでいる——」

「逆さまに翔んでいる?」

「ええ——あれ?」

 アッシュは空を指差したが鳥は忽然と姿を消していたのだ。

 

「どこか、翔んで行ってしまったのかもね。ああ、そうそう。もう少しで朝食なんだけれど、ごめんね、ちょっと、ちびっ子に服を着せたら準備をするから。寒かったら中に入っていてね」

 ちびっ子? 嗚呼、館の二階を駆けずり回っていたあの子のことか。起き抜けにも関わらず元気に「おはよー!」と廊下を走り階段をバタバタと降りてきた少女のことを思い出した。


 と、再び空を見上げる。果たしてあの逆さまの鳥の影は空にあったのだ。

(なんだろう、あれは)怪訝な表情でアッシュはまた暫くそれを眺めるのだった。


 と、フと視界の隅に何か動いた。何気なしにそちらを気にしてみると、大広間の大窓の向こうから赤髪の女性がこちらを見ているのがわかった。


(ああ、あの赤髪の人だ)


 なぜだろうか彼女の姿をみると胸の奥がキュッとする。

 怖いから? 苦手だから? どうだろう。目覚めたとき彼女は自分の口を押さえつけ尖った鉄製の棒を首に突きつけたのだ。胸中騒めくその気持ちにアッシュは名前を付けられず、そちらを見るのを、そっとやめた。


 逆さに翔ぶ影、気さくで美しいフロン人女性。

 そして——不意の来訪者は三度姿を現した。


「お兄ちゃん! ちょっと手伝って欲しいのだけれど!」

 それは、くるぶしまで隠れる長袖ワンピースの上に袖の無い膨れた上着を着込んだ金髪碧眼の少女だった。

 リリーが姿を消していった建物の角から姿を現したのは、リリーにとうとう着替えさせられたアイネであった。アイネは羊舎の羊を御する枝が欲しいのだと云い、枯れたアオダモの枝を折ってくれとアッシュに頼んだのだ。


「いや、でもわざわざ枝を折らなくても、その辺に——」

「いいのよ! 早く、おんぶをしてちょうだい!」

 アイネはそう云うと途端に走り出しアッシュへ向かって駆け出した。

「ネリスは、枯れた枝の先なら折って大丈夫だと云っていたわ!」

 きっとネリスとは先程、ここに居た庭師のことだろう。悠長にそんなことを想っていたのが間違いだった。思いの外、早駆けのアイネはそんなことを云いながらも、すでにアッシュの近くまでやってきて——飛びかかったのだ。思わずアイネを抱きかかえながら尻餅をついたアッシュは、そのまま大地に背をつけ大空を眺める格好になった。


 相変わらず黒い影は逆さまに翔んでいる。

(あれはなんだろう——)

 飛びかかったアイネのことよりもまだその影に心を奪われていた。





 ——大木様の館 大広間。


「リリーにお尻を叩かれるよ!」


 大広間の扉の向こうから聞こえた黄色い声は騒々しくやってきた。

 扉が勢いよく開け放たれると、羊を追い回す為の枝を手にしたアイネが踊り込んだ。その後ろでは枝を得るのになぜか獅子奮迅したアッシュが枯れ葉や得体の知れない小さな虫を頭にのせた姿をみせたのだった。


 そして椅子に座り佇む赤髪赤瞳の女性とアッシュは視線を絡ませた。

 先程感じた胸の奥を締め付けるものはなんだったのだろう。それを確かめるようにアッシュはエステルの瞳を捉えたが、彼女は顔を俯いてしまう。


「アッシュ、頭汚いよ!」と小さな逃亡者にして金色の暴君は、飛び跳ねて黒髪に絡まったものを叩き落とした。

「ちょっとアッシュ、この短い時間でなんでそこまで汚れることができるの」

 リリーが上擦った声で云うと場の一同は楽しそうに笑った。当のアッシュは「いや、それはその」と思い浮かばない言い訳を懸命に口にしようと口をパクパクさせたのだった。


「まあ、いいわ。さて、朝ご飯の準備をするから少し待ってね。アイネ——」

 リリーはそう云うと俯いたエステルを一瞥した。

「——エステルも手伝って頂戴。ネリス達が先に作ってくれていたから、あとは盛り付けて運ぶだけで大丈夫。できるわねアイネ。エステルは私と一緒にスープを仕上げるのを手伝って頂戴」

「一昨日も教えてもらったから、大丈夫!」とアイネ。

「あ、はい。ありがとうリリー気にかけてくれて」


 エステルは意図的にアッシュと目を合わせないよう席を立ち、いそいそとリリーとアイネと出ていってしまった。



「アドルフ——僕は彼女に何かしてしまいましたか?」

 アイネが叩き落とした葉っぱに枝、得体の知れない虫を拾い上げながらアッシュはアドルフに不安そうに訊ねた。


「いいえ、そうでは無いですよ。嬉しいのだと思いますが、ただね——」

 アドルフはそこで言葉を濁し、アッシュを見ると微笑んだ。

「今のアッシュさんは、なんか柔らかくて良いですね。先生が見たらきっとエステルさんと同じ感じになるでしょうが、僕は今のアッシュさんも好きですよ」

「先生?」

「ええ、僕の先生です」


 アドルフが濁した言葉の先に何が隠れているのか。それはアッシュには分からなかったが、ただ、記憶を失う前の自分と今の自分が全く変わっているのだろうとは想像に難くない。でも、何故だろう。アッシュは今、幾つかのしがらみはあるにせよ——随分と気分が軽やかだった。





 数日後に市場で販売をする農作物の加工や処理を厨房で行っているらしく、厨房、食堂は戦場なみの怒号が飛び交っている。普段、この大広間で食事をすることは少ないのだそうだが、それが終わるまではしばらくは大広間で食事を取ることになるそうだ。

 準備された朝食。それはさまざまな種類のパンにハム、ソーセージといった加工肉と、羊乳から育てられたシェーブルチーズやゴーダ、青カビが特徴的なロックフォールチーズ、新鮮な葉野菜に卵などが大テーブルを華やがせた。ただし、病み上がりの二人。アッシュとエステルは、先ず胃に優しいスープから少しづつ慣らしていかなければ駄目だとスープを前菜に朝食をとり始めるのだった。


 食卓となった大テーブルは終始賑やかだった。

 冬の澄んだ空気に混じり気はなく陽の光が素直に大広間を照らした。食欲をそそる温暖色の食材は見た目以上に気分を騒がせ、新鮮な葉野菜達はいっそう瑞々しさを主張した。その中、アイネは「このチーズは臭い!」と騒ぎ鼻をつまみながら、それを挟んだハムサンドに放り込み一気にかぶりつくと、「美味しい!」と云いうのだが、表情は真逆だ。そんな様子に一同笑いをあげたりもした。


「アイネにはまだその美味しさは分からないだろうね!」

 と、リリーは柔らかなアイネの金髪をワシャワシャと撫で付け云うと「わ、私だってもう子供じゃないから、美味しさわかるよ!」とアイネは目を瞬かせ強がった。でも、最後にはウェと云ってしまう。そしてトルステンが注いだ果実水で青臭いロックフォールを喉に流し込んだ。


 暖かな光景だ。

 エステルは遠い昔のことのように、王都エイヤの城館での生活を思い出した。食事を口に運びアイネの幸せ一杯の表情を眺めた。いつも無言の食卓。口を開けば聞きたくもない政治や軍閥の話。辟易とするその場。でも今は違った。暖かくそして何よりも優しい時間に包まれた。

 

「エステルさん?」アドルフがぼんやりと食事を口に運んでいるエステルに声をかけた。

「あ、すみません。なんでしたっけ? ロックフォールが臭いって話でしたっけ?」

 エステルは、少々ギョッとしてフキンで口を拭くと慌ててアドルフに顔を向けた。

「いえ、違います違います。大丈夫かな? と思って。気分が悪いとかは?」

「はい、もちろん大丈夫です。すみません、ちょっとまだボケっとしてしまって」

「なら良いんです。三日三晩寝込んでいた訳ですし、無理しないでくださいね」

「ええ、ありがとうアドルフ」


 そんなやり取りを見たアッシュは、エステルの横顔にそこはかとなく懐かしさを感じていた。そうすると、はたとアドルフから聞いていたことを思い出し、唐突に「え、エステル」と上擦った声で名前を呼んだ。

「え、あ、はい!?」またもや、ギョッとしたエステルは目をまんまると見開きアッシュに顔を向けた。

「あ、あの僕は記憶がなくてそれを覚えていないのですが」

「あ、は、はい。え? 何をですか?」

「すみません、僕はエステルに助けてもらったと……。なんか実感が無いところにお礼を伝えても——その、どうかと思っていたのですが」

「ああ、いえ、それを云うなら私だって同じです」

「エステルも記憶がないのですか?」

「いえいえいえ、違います。私こそあなたに命を救われているのです。少なくとも三度は救ってもらったのですよ」

「僕がですか?」


 これまで自分をと云ったアッシュ。その彼は、謝辞を口にすることなど無いのかも知れない。だって云う必要が無いほどにアッシュは有能で無敵で神をも脅かすであろう力を持っていた。だから、お礼は云われても云うことは少なかったのかも知れない。人々は彼を<宵闇の鴉>と呼び、英雄だとか鬼神であると祀りあげていたからだ。でも時折見せた気まぐれな優しさは自分をと呼ぶ今のアッシュならば合点がゆく。


 上手く整理はできていない。

 でもエステルはしたのだ。

 彼はアッシュ・グラントだと。だから、今、顔を綻ばせながら暖かい一筋の涙を零し「ええ、救ってもらったのですよ」と答えた。


「あああああ! アッシュがエステルを泣かし——」アイネの絶叫はリリーの手に塞がれモゴモゴと消えていったのだが、アッシュはそれに慌てふためき「すみません! すみません」とエステルに謝る。

「違うんです、違うんです」とエステルは、とめどなく流れる涙を懸命に止めようとするがままならない。


 トルステンは微笑みながらそれを見守っていた。しかし、目に映るのはそれだけではなかった。エステルへフキンを渡し甲斐甲斐しく心配をするアドルフは終始寂しそうで、心そこにあらずといった様子だったのだ。


(狩人には狩人なりの流儀があるのだろうけれど——アオイドス、君はあまりにもアドルフに背負わせ過ぎではないのか?)


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