天国の扉_production



 

 まるで私があなた達を馬鹿にしているみたいじゃない。

 じゃあ訊くけれども、あなた達も私たちを<外環の狩人>なんてちょっと意味深な呼び方をして関わろうともしないじゃない。まるで腫れ物を触るように、お金だけ出して用事がすめば、はいサヨナラって感じでしょ? エステル。あなたはよっぽど、そっち側だったでしょ。私はこっちに親しい友人だっているし、私は彼女達を見下したことなんかないわよ。

 

 何も知らないくせに——ってそれは狡い言い方だったわね。私疲れているのかしら。




 エステルが天幕の広場を駆け出した後、アオイドスは広場の隅で腰をかけて、束の間の休息を取っていた。


 相変わらず北の空は赤く染まり、桃源郷は侵略者の牙に晒されたという現実を生々しく世に知らしめているようだった。アオイドスはそんな空をぼけっと眺めながらエステルが最後に放った言葉を反芻しては一人芝居もよろしく心の中で反論するのだった。でも、最後には「何も知らないくせに」と、それ以上の反論を許さない句点を吐き捨て、自己嫌悪に陥る。


「先生、蜂蜜酒をもらってきました」

 アドルフの馬の鞍袋にはいつでも携行に便利なククサが放りこまれている。

 先刻死にかけたというのに、この呑気な野伏は軽やかな足取りで二つのククサをもってアオイドスの元までやってきた。そして、さっそく甘い香りの酒を啜りながらアオイドスに杯を渡した。


「ありがとうアドルフ君」

「温まりますよ」

「ええ、それに美味しいわね」

「はい。僕、結構こっちの蜂蜜の味好きなんですよね」

「そうなの?」

「ええ、なんと云うんですかね混じりっ気のない味がする感じですかね? ああ、そうそう。そうです。理想的な蜂蜜って感じで好きなんです」

「なるほどね。でもこっちじゃ口にするものは、みんなそうでしょ?」

「そうですか? いつからなのか判らないのですが、最近は混沌としてきたから? なのか安定した印象はないんですけどね。その中でも蜂蜜は今のところ理想的です。あくまでも僕の中ではですけれどね」

「そうなのね」

「ええ、先生が居た頃は、全部が全部、理想的な味でした?」

「うううん、どうだろう。思い出せないわ」


 そこで会話は途絶え、野伏は吟遊詩人の横顔を眺めるだけになった。


 その状況に、我に帰ったアドルフは段々と気持ちが忙しくなってきたのか「あー」なのか「そのー」なのか間を紛らわす言葉を挟み込んでみるが、続く言葉がどうにもこうにも出てこない。頬杖をついて北の空を相変わらず眺めたアオイドスは、横で勝手に忙しなくなっているアドルフを横目に見ると、クスクスと笑みを零した。


「大丈夫よアドルフ君。気を遣わせちゃったわね」

「いえ、全然」

「でも、本当にアドルフ君は沈黙が苦手ね」

「ええ、まあ。それには色々と理由もあるんですけどね」

「どんな?」

「言えませんよ、そんな弱点晒すみたいで嫌ですよ」

「弱点なの?」

「見方によっては、そうです」

「そうなの?」

「そうなんです」


 天幕の広場では相変わらずランドルフが隊員達に指示を飛ばして忙しくし、エステルを庇ったアイネは、小さいながらも、先程の啖呵を気に病んでしまったのか、何処かの天幕に引っ込んで手伝いをしている。広場からまた空を見上げたアオイドスは深くため息をついて、押し黙ってしまった。


(私、何やってるのかしら)


 まだ暫く北の空を眺め、外れてしまった気持ちのたがが引き締まるのを待った吟遊詩人は手持ち無沙汰にリュートを握った。

 幾つかの連符を優しく贈りだすように奏でゆくと、それはいつしか軽やかで凛とした旋律を編み上げ喧騒と交わりながら人々の鼓膜を優しく震わせた。溶けて無くなってしまいそうな甘い旋律は人々の気持ちを温かくし、蝕まれた献身の穴をしっかりと埋めて尚、鼓舞をする。


「先生、素敵ですね」

「どっちの話? 演奏? それとも私?」


 こういう時のアドルフは臆面もなく真っ直ぐだから、アオイドスは面食らってしまう。

 野伏は握られたリュートと吟遊詩人の顔を交互に見ると、「ああ、両方とも?」と首を傾げながら訊ね返す。これは反則だ。からかって反応を楽しむという悪趣味を取り上げられたようなものだ。だから吟遊詩人は照れ隠しに「なんで疑問系なのよ」とリュートの旋律をほんの少しだけ強めてみせた。


 南の大門へと続く街道がざわつき始めたのは、その時だった。


 警備隊の戦士達に魔導師、教会付きの魔導師に魔術師ギルドから派遣されてきた魔術師達。それに商人達、ありとあらゆる、その場を切り盛りする人々が足を止め何かの動きに合わせるよう、その場に跪いていった。跪く人々の中を悠々と歩いたのは、深く青く染め上げられたローブの上から純白の外套を羽織った一団だった。随分と大きなフードを目深に被った先頭の女性は、その中で口元を隠す白いベールをしているのがわかった。一団が進むと人々は口々に「聖霊さま」「聖霊ロア」と敬意を表し跪いていくのだった。


「先生——」

「ええ、そろそろ時間ね。私たちも行きましょう」

 

 一団を遠目で見た二人は待たせていた軍馬に騎乗すると北に向かって走り始めた。





「ロアさま、あれは」

 一団の先頭を歩くベールの女性に後ろの男がそう耳打ちをすると「ええ、あれは、ご主人様の同胞でしょう」と、ロアは煙をあげて走り去っていく二頭の軍馬をフードの中から見守った。


 と、その時だった。


 トンと軽く何かが当たる感触を感じたロアは足元を見ると、そこには金髪の少女アイネがロアの純白の外套をムンズと掴み立っていた。

「こらこら娘よ——」と一団の男がアイネを離そうとしたが、ロアはそれを制し、向日葵のような笑顔をしたアイネの目線まで腰を降ろした。

「ロア様、お召し物が——」と別の女性が声をかけるが、「良いのです」とこれも制止した。そしてアイネの金髪に手を添えると柔らかい声で「お久しぶりですね、アイネ。こんな夜遅くまで何を?コービーは元気ですか?」と少女へ微笑んだ。


「こんばんは聖霊さま。私は今ね、戦争で怪我をしちゃった人達の看病をお手伝いしているの。きっとお父さんだったらこうしていたと思うから」

「そう、偉いわね。あなたが産まれたのは、つい最近のことのように思い出せるのだけれど、何歳になりましたか?」

「十歳になったわ、聖霊さま」

「そうなのね、もう十歳になりましたか。大きくなりましたね」

「ありがとう、ロア様。ロア様は?」

「私ですか? どうでしょうね。もう数えるのが億劫になったので、数えるのはやめました」

「凄いですね!」

「何がです?」

「ロア様は何歳になってもお綺麗。お母様もそう云っていたもの」

「あらあらそうですか、ありがとうございますアイネ。嬉しいわ」


 そう云ったロアはアイネの小さな頭に、もう一度手をそっと添え、優しく金髪を指ですいてやった。

 向日葵のような笑顔は先ほどから変わらず崩れていない。一瞬たりともだ。


「アイネ?」

「はい、ロア様」

「コービーは——お父様はどうしたの?」


 アイネはコービーの最後を見たわけではない。

 周りの大人たちは少女を気遣うよう父親の話はしなかったが、なんとなしにその空気からは感じていた。一緒に逃げてきたケイネスもエメもエイベルも皆んなそうなのだ。でもまだ、それは見ていない。そう云って小さな心が壊れないよう笑顔で気持ちへ蓋をしたのだったが、今、それをロアが開けてしまった。

 小鼻の下が小さく引きつると、口を一文字にぎゅっと縛ったアイネは、崩してしまった笑顔を取り繕う。でもそんなものは上手くいく筈がないのだ。涙が溢れてきてしまいそうだし、胸の奥が苦しい。


 小さなアイネの大きな目からとめどなく涙が溢れ出してきた。

「ロア様——」

「お父さんは——」言葉を続けたら、アイネの中に居る父親もケイネスも、エメもエイベルも、本当に本当に——。

「アイネ、いらっしゃい」

 ロアはそう云うと、身体を小刻みに震わすアイネをきつく抱きしめ「ごめんなさいねアイネ」と耳元で囁いた。

「アイネ、よく聞いてください。あなたは——」

「ロア様、北の空が——」アイネに何かを伝えようとしたその時だった。先ほどの男が北の空を見つめながらロアに耳打ちをしたのだ。


「アイネ、申し訳ないのですが続きは後にしましょう。急いでこの街から出てください。皆さんも急いでこの街から出てください。今からこのダフロイトは——」

 ロアの声が凛と響いた広場で跪く人々は、ロアが見据えた北の空を同じく見上げ口々に「あれはなんだ」と騒めき始めた。


「今からこのダフロイトは壊滅します」


 聖霊——それは、リードランの均衡を護る裁定者であり、世界の王の代弁者として口伝される。しかし実際のところその存在は不確かなものであるが、人では到底抗えない理不尽を鎮め、時には取り除く彼らは神の写し身として広く知られている。聖霊の女王ロアはリードランの始まりから、この世に存在し世界の王が定めた偉大な法則を永きに渡り護ってきていると考えられている。ただし一般的にはそれは世襲であり、あのベールはその神格性を保つためのものとして代々受け継がれてきている思われている。

 しかし、これもやはり定かではない。

 そんな彼女が口にした言葉は、北の空に姿を現した<世界の卵>を破滅の予兆として知らしめたのであった。





 ダフロイト中央区画と中央北を隔てる煉瓦の壁は蔦の群れを這わせながら東西に永遠と連綿と続くのだが今は違った。アドルフ達が足止めを食ったのは、その壁をところどころ侵食しながらそびえる黒い何かに進路を絶たれたからだった。それは恐らく中央北区画をほぼ全域に渡り侵食しているように感じられた。見上げれば、ぬらぬらした液体とも、でん粉を溶かした液体とも感じる何かが、そびえた先の丸まったきわから流れ落ちているのがわかる。どういう訳か外側を滑り落ちるのにも関わらず何処かからか、内側に流れているようだった。だからそれはアドルフ達の足元を侵食する事はなかった。


「く、黒い壁? 壁なんですかこれ?」

 アドルフは鞍鞄から木製のスプーンを取り出し、確かめるように壁へ投げてみた。するとどうだろう。それは黒い半透明の壁らしきものに、ぬっぷりと刺さるとゆっくりと内側に取り込まれていく。頭から刺さったスプーンは表皮を捲り上げながら内側に小刻みに震えながら取り込まれていくのだが、その先でぼんやりと青く輝くと粒子を散らし霧散していったのだ。


「やってくれたわね、魔女」

「何がですか?」

 

 それは少し遅れてアドルフの傍にやってきたアオイドスの言葉だった。

 壁をというよりもその先を見据えているような吟遊詩人の横顔に気を取られていたアドルフだったが、ハッと我にかえりそう云うと、やはり同じく壁の向こうに目を凝らした。


「そうね、これは一つの可能性だったわ。あの子はこの可能性を予言していたの。そう。あの魔女。メリッサよ。世界が原初の海に還るとき宙はあらゆる可能性が形を得ていない状態になる——」



 上にある天は名づけられておらず、

 下にある地にもまた名がなかった時のこと。

 はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。

 混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。

 水はたがいに混ざり合っており、

 野は形がなく、湿った場所も見られなかった。

 神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。



「エヌマ・エリシュ——ですか?」


「ええ。出来の良い生徒を持てて嬉しいわ。アプスーにティアマトが何を示しているかは分からないけれど、とにかくあの子はこの碑文が示した可能性を、真実だと予言したわ。でもねあの子は世界を砕いて<原初の海>に還す方法までは、わかっていなかった」

「まさか、それって——」

「ええ、あの娘はこのリードランでそれを試したのよ。見て」


 アオイドスが指差した先。

 それは黒く濁って定かではなかったが、街道とその周辺にぽっかりと空いた、地肌が剥き出しになった空間へ乱暴に描かれた巨大な円環の幾何学模様だった。そしてその円環の中心にあったのは——

 

「う、嘘——あれは、アッシュ・グラント? それにエステルですか?」

「ええ、でも——そうね。以前はここで失敗しているはずなのよ。エステルもここには居なかった。そして——」


 言葉尻を落としたアオイドスは、遠くで軽やかに跳ねる長靴の音を聴くと、ゆっくりと軍馬を旋回させ振り返る。その長靴の音は、アオイドスの目の前で足を止め対峙した。それは、深く青く染め上げられたローブに純白の外套、頭の数倍はある大きなフードを被った聖霊ロアとその一団だった。


「——聖霊がアッシュを引き戻すのだけれども、これは想定外じゃなくてロア?」


 アオイドスは軍馬から降りると聖霊に手を差し出した。

「そうですね、ワールドレコードに記されたどの事例にも該当しません。ご主人様の脳へ侵蝕が始まってしまっている危険な状態です」

 ロアは、もぞもぞと外套から不器用に手を出すと吟遊詩人の手を握った。


「先生、この方々は?」

 アドルフも吟遊詩人に倣って軍馬を降りると、ロア達に軽く会釈をする。


「聖霊族よ。リードランの均衡を護る裁定者。私たちのような外環の人間がこの世界にくるときは少なからず歪みが起きるの。その歪みが均衡を崩さないよう常に監視をしている。それで、ロア。時間もないと思うのだけれど打つ手はあるのかしら?」


 口早に、蔑ろに説明をされたアドルフは、少々怪訝な顔をするとバツが悪いのかロアの傍に立った女性へ肩を竦めてみせ、吟遊詩人とロアの会話に耳を傾けた。


「はい、可能性は半々ですが」

「そう。もう、これから先のことは私にも分からないから待っていても大丈夫かしら」

「はい、勿論大丈夫です。あとは、私達にお任せを」


 そう云うとロアはベールの奥で微笑み、軽く膝を落とし一礼をすると「扉を開けます、展開を」と一団に指示をする。十二人の聖霊の一団は、ぬらぬらとした黒い半透明な壁の前に立つと、皆が一様に両手を広げ天を仰ぎみる。


「.TITLE | MULDIV LABEL… ADRS LB RB AL SH SB MM SQ TS EX LT START 100 NLB SLT NAL NSH R1S NMM NSQ NTS NEX 010 101 NLB SLT NAL NSH R2S NMM NSQ NTS NEX 005…102 NLB NRB NAL NSH NSB NMM BP 000 NEX 10A MULT 103 R1L NRB NAL NSH R3S NMM NSQ NTS NEX 000 104 NLB SLT NAL NSH R1S NMM NSQ NTS NEX 010 105 NLB SLT NAL NSH R2S NMM NSQ NTS NEX 005106 NLB NRB NAL NSH NSB NMM BP 000 NEX 111 DIV107 R1L NRB NAL NSH R4S NMM NSQ NTS NEX 000…108 R0L NRB NAL NSH R5S NMM NSQ NTS NEX 000 109 NLB NRB NAL NSH NSB NMM NSQ NTS HLT 000 MULT 10A NLB SLT AND NSH R0S NMM NSQ NTS SC 010 ….」


 ロアを中心に天を仰ぎみた聖霊達は口々に奇怪な言葉を連ね、それは互いに絡み合うと次第に何か一つの意味を持つ「音」を形作っていくようだった。いや、それはよくよく聴けば「唄」なのかも知れない。そんな、歪な言葉の形が螺旋を描き意味をなしていくのだ。

 そしてついにそれは明らかにる。

 聖霊の前に光り輝く大きな扉が姿を現したのだった。


「ご主人様は不測な事態の為にこれを用意していました。少々その名前を口にするのが憚れますが……これがヘブンズドア。私達だけが潜れるバックドアです」



 

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