4_Wonderwall

ルエガー大農園①




 あにはからんや、あれは有りそうか、無さそうか?

 生きていそうか死んでいそうか?

 そんな余白のある言葉は在ることさえ許されない「虚無と死を撒き散らした黒月が堕ちた大穴なのだ」と、吟遊詩人達は物哀しく吟じる。

 いやいや、あれは隠り世から人の憎悪が個を成し「うねり湧き出て怪異を産み出す悪魔の子宮と成ったものだ」と魔導師達はしたり顔で説教をする。

 異かな異かな「あれはまだ見ぬ魔力の子が世界を変革せしめんと鼓動し始めた証しなのだ」と魔術師達は、ことましやかに己が机上で不可解な文字と幾何学模様を羊皮紙にしたためる。

 ——多くの人々が口伝する<大崩壊>の様子は概ね口を揃えて陰鬱でいて人智を超えた力による災厄だと語られるが、正確なものは伝わっていない。もっとも、夜の帳が降りる頃フォルダールの優男達が、どこぞの女神が嫉妬に怒り狂って、すりこぎ棒で大地を突っついたのだと酒をひっかけ語る酒の肴とは別物だ。





 永世中立都市ダフロイトの<大崩壊>

 この事実は瞬く間にリードラン全土が知ることとなり、各国はこの災厄への対応を表明せざる終えない状況となった。世界会議で正式に採択された<北海の和約>が、リードラン解放戦線なる狂信者の武装集団により反故にされ、あまつさえ都市機能の半分に壊滅的な打撃被ったという事実は少なからず世界情勢を揺るがせた。

 西のフォーセット王国と北のアークレイリはダフロイトをアークレイリへ返還することを強く要請し、これを他の三国が拒むのであれば武力行使も辞さないと表明。かたやダフロイト評議会を事実上擁護するフリンフロン王国は、返還の如何はブレイナット公国、フォルダール連邦諸国の意向に准ずると珍しく自国の主張を控えた。

 これにより、実のところ北からの脅威を自国から遠ざけ、対岸の火事としてきた両国は世界情勢の均衡の責任を託された。北に同調すれば、恐らくは貿易都市セントバはその機能を封鎖し貿易路は断たれることとなり同調しなければ戦争だ。

 どちらにせよ均衡は破られるのであろうし、次に考えなければならないのは、どのように立ち回るのか? ということとなる。

 難しい対応を迫られる二国は、そもそも何故リードラン解放戦線なる狂信者の集団が野放しにされていたのか? というアークレイリの体制に疑問を投げかけ、ダフロイトの返還が何の問題解決になるのかの説明を要求した。


 それは、体の良い時間稼ぎである。


 その間、フリンフロンはこの災厄の本質が<世界の卵>の顕現、その要因が一人の戦士と世界で暗躍する吸血鬼の始祖の戦いにあるという事実を巧みに隠蔽し箝口令かんこうれいをしいた。ジーウ・ベックマンはその原因の一つとなったアッシュ・グラントを軍で保護することを提案するが一時保留となり、彼の身柄を王国諜報組織<月のない街>で保護することとなった。<世界の卵>収束とともに忽然と姿を消した解放戦線将軍ネリウス・グローハーツの捜索とアッシュ・グラントの保護。ないしはネリウスもしくはそれに準ずる始祖との接触が認められた場合の処理を見越してのことである。


 もっとも、エステル・アムネリス・フォン・ベーンの保護という国家間の問題もあり対処は公にはされなかった。そしてこの処置には大きな理由がもう一つあった。

 外環の狩人であるジーウがアッシュ・グラントを狩人として認識できなかったのだ。狩人同士であれば、互いにそうであることを認識する術があるのだが、それが一切機能していないのだそうだ。これにはアオイドス、アドルフの二人も驚きを隠せない様子で、調べなければならない事があるとアオイドスはここ数日のあいだ姿を消している。


 ことの顛末を知るであろう聖霊ロアも何処かへ姿を消していることから、現在のところ真実は闇の中。

 つまり、今、エステルの目の前で寝息を立てる黒髪の男はかつて<宵闇の鴉>と呼ばれたアッシュ・グラントではない可能性もあるということなのだ。





 未曾有の大災害に見舞われようが生きている限り力強く生き抜く。

 確かにそうだ。そうなのだが、弔うべき亡骸も、それを探すべき場所も奪われた人々は無念にうちひしがれ項垂れ、生きる気力さえも失ってしまうのを誰が責められようか。死に目を看取るわけでもなく、最後にかわす言葉もなく突然、目の前からいくつもの笑顔に喧騒、愛さえも奪われたのだ。


 力強く生き抜く?

 そんなことを口にできるのは、遠く離れた地で傍観する偽善者だけだ。残された人々にできることは、痛みを分かち合い、寄り添い、必要であれば助ける。そういった気遣いの中に生まれた思いやりで接することだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 城砦都市フリンティーズの南に位置するクレイトンの街でもそれは同じだった。多くのダフロイト市民がクレイトンに流れ、身を寄せ合いこれからのことを考え抜かなければならない状況なのだ。

 

 街の農園、ルエガー大農園の主トルステンと妻のリリーは<大崩壊>の際、ダフロイトで農園を切り盛りしていたトルステンの弟が「解放戦線」に首を落とされ、その娘も行方不明と知り失意のどん底にあった。つい数週間前は遊びに来ていた弟とその娘、農園に住まう農夫達とともにささやかな晩餐会を催し、今度クレイトンに来るときはダフロイト名産の甘酸っぱい果物を持ってきてくれなどと話をしていたのだ。それが突然その存在を奪われ、亡骸を引き取ることも探しに行くこともできない。これほど怒りや悲しみのやり場のないことがあるのだろうか。

 しかし、農園の農夫の一人、アドルフ・リンディが<大崩壊>の生き残りが居たと農園に駆け込んだのだ。そうして、生存者の黒髪の男と赤髪の女、弟の娘を連れて来たのはつい先日のことだった。生存者が皆無とされた<大崩壊>の中、弟の忘れ形見が生きていてくれた。それに奮起一番その日から手を止めていた仕事を再開し始めたのである。





 ルエガー大農園——数刻前。

 鳥達の可愛らしい囀りに混じりカッコウの鳴き声が聞こえてきた。

 外に少し張り出した小窓は空気を入れ替えるためなのか外に向け開いている。白い上質なレースのカーテンが風に揺れると、部屋に満たされたいたアークレイリ産の建材特有の爽やかな香りを隅々まで届けてくた。それは森林浴をしているような気分を味わせてくれる。故郷の懐かしさを感じながらエステルはその部屋で目覚めた。しかし目にしたのは見慣れない天井だった。


 そう、きっとここは故郷の王都エイヤではなかっただろうし、エステルの記憶が正しければ自分がいるのはダフロイト。いや、そうではない。一体ここはどこなのだろう。

 寝ぼけ眼を擦りながらそんなことを考えてゆっくりと体を起こすと、両手で自分の体のあちこちを撫で異常がないかを確かめた。


 ––––いいえ、最後はダフロイトだったわ。アッシュが守ってくれた。


 懸命に記憶の糸を手繰り寄せた。

 しかしどんなに手繰り寄せても最後の記憶に辿り着こうとすると、白と黒の稲妻がほとばしり、頭の中を激しく撃ちつけるのだ。その度に耐え難い激痛がエステルを襲い、記憶の糸のその先を隠してしまっているかのように思えた(恐らく、最後は気を失ってしまったのだとは察しはついているが)

 小さく頭を振ったエステルは気を取り直し「まずはここがどこかよね」と寝台から軽やかに降り。

 そして部屋の中を見てまわった。その部屋は客間として使われている様子で寝台の他には壁面と同じ材木で造られた脇棚と、腰の高さはある丸机に質素だがしっかりとした造りの丸い椅子が二脚置かれていた。


 そして火を落としたばかりの暖炉が炉床に幾ばくかの灰を残して部屋の北側に佇んでいる。その様子から自分は捕虜の類で監禁されているわけではないことを理解した。音も立てず猫のよう軽やかに部屋の鎧戸まで駆け寄ると、ほんの少しだけ押してみる。

 鎧戸には鉄製の鍵があるだけで今は、それは扉を閉ざしてはいなかったから、スーっと音も立てずに片目が覗く程に簡単に開いたのだ。

 部屋の外を覗くとそこは、人が二人譲り合えばすれ違えるほどの広さの廊下で、部屋と同じく白けた木材の板が張られていた。そこまで確かめるとエステルは、またスススと軽やかに鎧戸から離れ、ひらりと寝台に戻ると思案に耽り始めた。


 ––––捕虜ってことは無さそうだし、軟禁されているわけでも無さそうね。


 すると、寝台でサッと身をもたげ小窓から身を乗り出すと外の様子を伺った。眼前の畑には葉野菜などがどこまでも広がり、夜のうちに冷やされた肥沃な土が朝日を受けてもやもやと水蒸気を立ち昇らせている。どこまでも広がる田園風景を幻想的に映し出した。

 白靄の中、朝早くから農婦が作物の周りの雑草を毟ったり具合を調べるため前屈で作業を進める。その姿はまるで絵画のなかの出来事のようだなと、エステルはしばらくの間その景観を眺め余韻に浸った。

 

 鳥の囀りで我に返ったエステルは、周りをぐるりともう一度見回してみた。遠くに広がる森林はきっと広葉樹で、アークレイリに多く生息する針葉樹とは全く異なっており、なによりも雪の気配がしない。小窓から顔を出したエステルに気がついた農婦が、陽気な声でエステルに声をかけた。


「おはよう赤髪さん! 具合はどうだい?」


 農婦はそういうと、片手でエステルに手を振って見せた。

 エステルも手を振ってそれに返した。

「ええ、おかげさまで元気よ! お母さんは朝早いのね!」

 絹糸のように細く澄んだ声を少しばかりか張って答えたエステルは、女性の日に焼けた浅黒い顔へ刻まれた皺やその中にポツンと浮かぶ小さな黒い瞳の双眸をみると何故だか心を落ち着かせた。何もかも取り敢えず、なんとかなるのではないかと感じた。だから、今はこの農婦との会話を愉しむことにした。


「そうさね、昨日の夜は随分と冷えたから今日はこの子達の様子を見なけりゃならんかったからね! そうだ、赤髪さん。連れの男。ありゃフロン人かい? 随分と良い男だね! でもあれだよ、あんな黒髪でも南の優男の血が混じってりゃ、あんたを泣かすことだってあろうさね。気をつけるんだよ!」


 最後には陽気に笑い飛ばした農婦はカゴを抱え上げ「そうだ、赤髪さん、起きたら旦那様が話をしたいって言ってたよ! 大広間に行ってごらん」とスタスタと随分と向こうに見える納屋の方へと去っていった。——連れの男? 旦那さま?

 訝しげに思ったが、歩き去る農婦にエステルは「さようならー!」と手を振り見送ると、サッと部屋に戻して寝台からおりた。ふーっと軽く一息つき、まずは大広間に行ってみよう。と意気揚々と鎧戸に手をかけたが、エステルは何かに気がつき、はたと動きをとめた。

 鎧戸にかけた手、腕、は随分と露出しており、足元を見ればしなやかな両脚は膝から下が露わになっているではないか。まさかと思い首回りを弄ってみたが、幸運にも、おしとやかな胸部はしっかりと首の詰まった丸首のチュニックのおかげで露わにならず済んでいる。


 しかしだ。

 いかんせん袖無しのチュニック一枚では幾ら膝下まで丈があったとしても、これはほとんど下着姿と言ってよかった。もしこの姿で外に出られるとしたら、それは、夜の街に繰り出す娼婦か、のっぱらを駆けずり回る小さな子供だけだろう。

 あたりを見回しても自分の装備は見当たらなく、まさか気の利いた侍女がお嬢様お召し物をお持ちしましたと来るわけもなく、さて、と頭を捻るが無い物はない。

 のっぴきならない状況にエステルは半ば考えることに辟易としたのか、きっと悪いことにはならないと、鎧戸を開け廊下に躍り出てた。少しばかり警戒をすると、軽やかに素足で左手に伸びた廊下を歩き始めた。

 数歩足を進めると気がつくのだが、元いた部屋の左隣にはきっと同じくらいの広さの部屋があり、出て来た鎧戸と同じ造りの扉がすぐに目に入ってきた。ふむ、と何か気になったのかエステルは足を止めると、その見つけた扉の向こうへ農婦が云った連れの男がいるのではないかと考えたのだ。そして、エステルは、実に自然に、吸い込まれるように扉に近づき鎧戸を開け部屋の中へスルリと滑り込んだ。


 思った通り部屋は先程の部屋と全く同じ造りだった。

 ぱっと見た感じは誰もいない様子だ。

「はぁ」とエステルは小さく溜息ついたが、寝台にシーツの小山ができているのに気がつくと、目の前でパッと火花が散るかのような衝撃が走った。すると、それが何かを確かめるため小走りで駆け寄り、恐る恐るシーツをめくった。


 エステルは、息を飲んだ。

 そこにいたのは、アッシュ・グラントだった。

 きっと目を開いてさえくれれば、どこか壊れそうで儚げな声で、自分を見つめ、そして名前を呼んでくれるのだ。そう彷彿し触れてしまえば壊れてしまうのではないかと躊躇っていたが、ようやくアッシュの頬に触れた。温もりを感じるとその途端、澄んだ赤眼は白とも、赤とも色を変えながらとめどなく大粒の涙を零した。

 涙でアッシュの輪郭が朧気になるのを懸命に両手で目を拭い頬に触れ、また拭い、そしてまた触れる。そんなことを繰り返すと、これまでの想いが胸に去来しては、泣いたり微笑んでいたりと忙しくした。心底嬉しそうに男の頬を隅から隅まで確かめるかのように手を滑らせた。目を覚ましてくれればこれまでに募らせてきた思いを曝け出し、朝まででも、いつまででも話をしていたいとエステルは願った。


 しかし、その想いは突然に幕を下ろした。

 去来する想いに唐突に、血と鉄の臭い、そんなものを包み込んだどす黒い何かが襲い掛かって来たのだ。アッシュを見つめる瞳からはすっかり涙は姿を隠し赤く腫らした目の下に涙痕だけを残した。

 それまで心のどこかにしまいこんで、鍵をかけられた悪夢の扉だったが、アッシュの安らかな寝顔を免罪符に鍵はカチャリと扉は大きく開いた。すると、走馬灯が駆け抜けるようにダフロイトの記憶が勢いよく溢れ出て心を乱暴に黒く塗り上げる。そして、あの光景を何度も何度も何度もエステルに見せる。


 それは、血塗られた戦場に力なく跪くエステルの脚元へアッシュのかぶりが転がってくる、あの光景だった。

 あの時、あの場でエステルは何が起こったのか本当は理解ができなかった。

 最初はゴロゴロと転がってくるのは、本当は大きめな石なの。それとも、これは何かの冗談で子供達が遊ぶ手毬で、それ転がってきているのでなはいかと記憶を塗り替えようとする自分がいた。

 何度も何度も繰り返されるその光景は、次第に全ての可能性を否定し、ただただ残酷にその真実を曝け出したのである––––それは、確かにアッシュの頭部だったのだと。


 ––––狂気の沙汰であった。

 そうこうするうちにアッシュの身体は音もなくパタと膝を折って前屈みに倒れるのである––––そうなのだ。アッシュはあの日、目の前で首を落とされたのだ。エステルはその記憶に打ちのめされ、力なく寝台の脇に置かれた椅子へ座り込んだ。でも、それでも、あのすり鉢の底で自分は目を開き、朝靄の中でアッシュの顔を確かめたのだ。最後の時、アッシュの身体を離した覚えはない。エステルはそう言い聞かせ、また寝台で寝息を立てる男の頬に手で触れたのだ。

 

 すると、その瞬間だった。

 目を瞑ったままの男が突然苦しみだすと、突然に身体を起こしたのだ。

 男は頬に触れていたエステルの左手を勢いよく払い、いつの間にか右手に収まっていた狩猟短剣を構え寝台から降りようとした。

 それまで瞑っていた目を開いた男の黒瞳は獣のように狂い、奥底では白黒した炎が渦を巻いているかのように見えた。


「アッシュ!」


 エステルの悲痛な叫びは男には届かず、その狂った黒瞳と奥底に渦巻く禍々しい炎は消えることなかった。男の瞳はエステルを捉え、そしてゆっくりと緩慢とした動きではあったが力強く寝台から両脚を下ろし、今まさにエステルに襲い掛かろうとした。

 ひらりと寝台から飛びのいたエステルは、暖炉の傍にかけてあった火搔き棒を手に取ると、アッシュとの間合いを詰め、今は目の前の狂った男をできるだけ穏便に無力化することに集中をした。


 すると男の様子が一変する。

 男が次にはまた苦しみ始め「グググ」とくぐもったうめき声を漏らし、左手で頭を抱え込むと、その瞬間をエステルは見逃さなかった。力強く床を踏みしめ、バン! と音が聞こえるほどに床を蹴ると、瞬くまに頭を抱え込んだ男の懐に飛び込み、右手を力強く押さえこむ。


 次には顎を下から押さえ、見事な足払いを仕掛けた。

 騎士の名門ベーン家の長女であるエステルは、魔導師に身をやつす前は、しっかり武術の鍛錬も行っていた。それが今、思わぬところで役にたったのである。男の体躯は決して低い訳でなく、どちらかと云えば鍛え抜かれた中肉中背であった。それが見事に宙を舞い、元いた寝台にガタン! と大きな音を立てて押し返されていたのである。

 苦しみ踠く男へ咄嗟に飛び乗ったエステルは膝で男の右手を押さえ込み「グガガガ」と獣じみた声をあげる口を塞いだ。そして掴んでいた火搔き棒を首元に突き立てたのである。を赤く腫らしたエステルではあったが、大粒の涙はもう溢れることななく、どうにかしてこの目の前の男を正気に戻そうと必死になった。


 そして、小さいが力強い声で男に語りかける。


「良く聞いてください。ハイなら一回、イイエなら二回頷いてください。私の言ってることがわかりますか? 下手に<言の音>を口にすれば、これを突き刺しますよ」


 グッと口を塞いでいる左手を幾ばくか力強く押し付けて男にそう語りかけると、最初はあの獣のような声を発し、両脚をジタバタとさせ、あまつさえエステルの背中を膝で打ちつけてきた。しかし、何度かのその問答で男の抵抗が弱まり、もう一度同じように声をかけると今度は一回、静かに頷いて見せた。いくら病み上がりだとはいえ、あのアッシュが自分をひっくり返せないことに、一抹の不安を覚えたが、エステルは「いいわ」と小さく男に質問を投げかけた。


「あなたはアッシュ・グラントですか?」


 一番エステルが知りたかったことだ。二回頷いた。イイエだ。

 矢継ぎ早にエステルが質問を続ける「自分が誰なのかわからない?」今度は一回頷いた。ハイだ。

 「あなたはダフロイトにいた事は覚えていますか?」頷きが二回返ってきた。

 「今どういう状況なのか理解はできていますか?」すると返答がなかったのだが、暫くの間の後、二回ゆっくりと返答が返ってきた。


 エステルは愕然とした。


 男は記憶を失っているのだ。ああ、なんという事だろうか。確かにこの顔は自分の知っている、アッシュ・グラントなのだ。しかし、記憶を失っている。エステルは最後の合図に力なく項垂れた。


 と、その時だった。

 鎧戸が勢いよく開かれ短剣を構えた男が、ひらりと部屋に舞い込むと、随分と乱暴な言い方でエステルに制止の声をかけたのだった。



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