大崩壊




「ご主人さま、それの誘いにのったら駄目です!」

 叫んだのは、このあやふやで曖昧な空間に踏み込んできたロアだった。

 すでに外界では大男の身体は聖霊達の手によって解体されたが、溢れ出てきた半透明の<何か>はその空間に穿たれた穴のように留まり際限なくダフロイトへ<何か>を垂れ流した。しかし、これを止める方法はそこにはなく、ロアは再びバックドアを通じ元凶となるこの空間を閉じにやってきたのだ。


「ロア」

 聞き覚えのある気取った声に振り返り聖霊の姿を確認したアッシュ。

 ロアはそれにしかめ面で返した。


「それから目を離さないでください! 馬鹿なのですか!?」

 あらゆる生命体の残骸と揺蕩う青い粒子を掻き分け翔んでくるロアは、不用心に振り返ったアッシュを見るや否や、その速度をグンとあげた。右瞳の瞳孔で蠢く何かが急速に変化していく。

 ——...OKE#700,7,33,16,181,2,70,0,32,1,35,27,4,12,70,92,67,162,66,1,219,18,27,24,68,91,8,247,209,17,70,16,189…——


 ロアが速度をあげ、残骸を蹴散らすと後ろに流れていくそれらは、跡形もなく奇怪な記号の塊となり遠くで消えてなくなった。せせら笑う白狼のかぶりは「聖霊め」と喉に何かをつっかえたような息苦しい声で云うと、赤黒い瞳をひっくり返し醜くその形状を変化させた。それは急速に蝶のさなぎのような形状を取るとアッシュの左腕に巻きつき絡まった。

 アッシュは咄嗟にそれを捨てようとするが、刺すような痛みを覚え途端に身体の自由が奪われていくのを感じ、膝を折ってしまう。


「ご主人さま、左腕をぶった斬ってください!」

「ぶ、ぶった斬れ!? お前何を——」

「早くしてください! 帰れなくなりますよ!」


 ロアの目は至って真剣だった。

 ロアの云うそれは暗喩でも、例え話でもなく、本当に、物理的に——今のこの状態が物理的にどうこうできるものかは分からなかったが——左腕を斬り落とせと云ったのだ。とんでもない話だ。

 だからそう、とんでもない話ではあったが、左腕を斬り落とすため黒鋼の柄を握り振り上げた——が、しかし刺した痛みは鈍痛に変わり痛覚の触手が身体中を這い回ったのだ。感覚が麻痺し、四肢に至ってはまるで張りぼてのようで使い物にならなくなってしまう。


 そして、力なく右手から溢れ落ちた黒鋼の両手剣は音も立てず地に腹這いとなった。


 なんだこれ——意識を飛ばしてばかりだな、情けない。

 アッシュは朧げながら傍に静かに降り立ったロアの姿を見上げて、力なく零し、やはり力なく微笑むと次第に瞼が閉じていくのを感じていた。緩やかに暗転していく視界の中、ロアが呆れた声で「だから云ったじゃないですか」とか「本当にご主人様は私が居ないと——」云々うんぬん思いつく限りのぼやきを口にし自分の前にしゃがんだのがわかった。聖霊の一団も集まってきたようだった。


「これは本当にまずいですね。脳への侵食深度が臨界点を超えそうです——」

「ロア様」

「仕方ないですね、バックアップから再構築しなければなりません」

「しかし——」

「ええ、最後のバックアップがいつだったか——本当に馬鹿なんですから、もう」

 ロアの深刻そうな口ぶりと、そう口にするのを愉しんでいるようにも感じるアッシュへの罵倒。暗転仕切った視界のいくばくかの余韻でそれを耳にしたアッシュは「馬鹿馬鹿うるさい奴だな」と口にした気もしたが、それがロアに届いたかは分からなかった。


 そしてアッシュの世界は暗転した。





 数刻前——フリンフロン王国最北の城砦都市フリンティーズ。


 <北海の和約>により永世中立都市として独立を果たしたダフロイト。これを牽制する役割を果たすと云うのは大義名分で、その実は北の大国アークレイリを監視する部隊の逗留先というのが、このフリンティーズの大きな役割なのだ。外交上は東のハップノット、西のマニトバ、南のホレイスといった城砦都市と同じく交易都市セントバへの流れ込む貿易路の玄関口として機能をする。

 関税はそれぞれの玄関口で徴収され、その証明となる銀細工を持たない商隊はセントバ入り出来ない。銀細工には特殊な魔術が付与され、セントバの門をくぐる際、これの正当性が確認される。予め検閲所に知らされた魔術の符号に合致しない銀細工を持った商隊はリードラン五国で交わされた条約<商人の掟>に則り処罰を受ける。

 

 野伏のアドルフ・リンディがフリンティーズに逗留中のジーウ魔導師師団、師団長ジーウ・ベックマンへ耳を疑う情報をもたらしたのは、始祖アレクシスが覚醒した夜だった。その内容は「リードラン解放戦線がダフロイトを急襲。そしてを崩壊する」というものであった。ジーウもアドルフと同じく、リードランの国政の末端へ関わる珍しい<外環の狩人>だ。故にアドルフの情報の正当性は担保できるものとし早急に出撃の準備を整えた。

 そしてジーウは魔導師師団から二個大隊、イカロス騎士団から三個大隊を編成すると、翌日の朝にはフリンティーズを出発した。

 ジーウの旅団幻装で強化された軍は最大速力でダフロイトへ進軍をすると、夜の帷が降りる頃には緩衝地帯に足を踏み入れダフロイトの城壁を目視できるところまでやってきていた。

 総勢、百数十名の隊員に術を維持し進軍をする底なしのジーウの魔力に皆、舌を巻き口々に「あの女師団長は悪魔か?」と遠巻きに囁き合う。精巧な人形のような面立ちが涼しげな印象のジーウは茶色の長髪が風に乱されることは気にせず<言の音>を切らさぬよう集中し、そして、器用に軍馬を御した。

 華奢な身体に少々大きめのオリーブ色のローブに夜戦用の外套をまとったその姿は、魔導師というよりもお忍びの令嬢といった印象も受ける。そして、その横を並走し駆ける騎士団長のイカロス・ウェールズ・グフは、その令嬢の目付役として同行する従者のようだった。と、云うのも、イカロスは決して体格に恵まれている訳ではなかったし、所謂騎士然とした面持ちでもない。だから騎士団長としての威厳にかけると他の騎士団から思われている節がある程に騎士らしくないのだ。


 むしろ、優男といってよかった。


 なんだったら執事といっても良いくらいに騎士とは無縁に思えるほどだ。しかし、それは外堀からの揶揄でイカロス騎士団の騎士達は、イカロスが激昂した時の激しさをよく知っているから、それに取り合おうとはしない。


「ジーウ師団長、そろそろ到着かと」


 イカロスが軍馬を寄せながら、ジーウに声をかけた。ジーウは堀の深い面立ちぶ浮かぶ碧眼をパチクリとさせると「やーねー、本当だわ」と惚けた口調で云うと<言の音>を紡ぐのをやめ、ふー、と一息ついた。


「お疲れ様です」

「いいのよイカロスさん、これが私の仕事だもの」

 そう云うとジーウは微笑み「で、ここからはイカロスさん達の出番ね」と続けて、北に伸びる街道の先を指差した。

 ジーウの少々幼さを感じさせる指が指し示した方向に見えたのは、ダフロイトの城壁からいつの間にかに、そびえ立った黒い壁のようなものだった。よく見ればそれは大きすぎて気がつきにくかったのだが、横に寝かせた卵の上半分が城壁からその姿を覗かせているような格好をしていたのだ。

 

「あ、あれは?」

「あれが、アドルフさんが知らせてくれた侵攻の正体で、アオイドス師匠が予見していた<世界の卵>」

「え? あ、魔導師ジーウ。私達騎士団が出番と云うのと、あれは何か関係が?」

「はい! 大ありですよ! 突っ込んで頂きますあそこに!」

「突っ込む? 聴き間違えていますか私は?」

「いいえ、大丈夫です。聴き間違っていませんよ。突進の<突>に、ぶっ込むの<込む>です」


 そしてジーウは満面の笑みでイカロスに頷いて見せた。

 イカロス騎士団は多くの場合において、ジーウ魔導師師団と行動を共にしてきている。イカロスはジーウの涼しげな印象、これは幻想でしかなくて実際のところは、いや結構な割合において——人とはちょっと違っているのだということを知っている。でも、こうやって今でも馬を並べていられると云うのは、やはり多くの場合においてジーウの判断は的を得ており、生き延びているという証拠でもある。


 だからイカロスの答えはいつだってこんな風なのだ——「栄えある騎士団の諸君。我々は今からあの黒いのに突撃します」

 イカロスが弱々しく云うと、騎士団からどよめきが湧き上がるが、次の号令でそれは掻き消される。


「戦闘陣形<楔>!」

「応!」

 夜空に騎士達の鬨の声が響き渡る。

 南の大門が目視される頃には、その黒いのが縮小していくのを確認できたが気にせずに開け放たれた門に向かって全速力で突進をしていった。





 イカロス達騎士団が突進した南街道のあちこちでは、門が開け放たれたことにより雪崩れ込んだ夜鬼や先のガライエ砦の騒動の際、掃討から漏れた屍喰らいといった人外と警備隊の戦闘が行われていた。奮闘する隊長らしき男に声をかけ、状況を確認すると先ほど聖霊の一団が北に向かったことがわかった。ひとしきり人外の掃討に手を貸し鎮圧するとイカロスは、二個小隊を残し一般市民の避難などにあたらせた。


「ダフロイト警備大隊、大隊長のランドルフです。ご助力感謝します」

「フリンフロン王国、イカロス騎士団団長のイカロスです。良くここまで統制を。素晴らしいですねランドルフ大隊長」

「いえ、しかしあの黒いのは——」

「私にもわかりませんが——我が師団長はアレに突っ込めとの一点張りで」

「え? アレにですか?」

「ええ——酷い話ですが、きっと大丈夫です」


 イカロスは着込んだ甲冑の胸に籠手を二度当てて、略式の礼をすると「それでは失礼、また後ほど」と云うと騎士を引き連れ北に向かって駆け出した。その少し後にフリンフロン軍魔導師の師団も到着し、いくばくかの魔導師を救援活動にあたらせ、やはり颯爽と北に向かって駆けていった。





 トクン——

 トクントクン——

 トクントクントクン——


 どれほどの時間が経ったのだろう。

 数刻? いいえ、一晩? いいえ、数日?


 冷たくなったアッシュの骸を抱きかかえ、終焉を受け入れよう。死して聖霊の原で、また会えるのであればそれでも良かった。ただ一言「ありがとう」と伝えるだけでも良い。エステルは聖霊達の奇怪な<唄>を耳に、目を瞑り暗闇に逃げ込み、そしてそのまま死を受け入れようと思った。聖霊の唄が次第に遠のき、閉じられた瞼の裏で赤や青や緑に狂ったように輝いていた光が収まると、白々とし始め、暖かさを感じ始めた。冷え切った身体を陽の光が包み込むような柔らかさ。冷たいはずの空気でさえ、陽の光の中では柔らかく暖かい。


 ひょっとしてもう——

 いいや、それは違った。

 右の頬に感じた冷たさまでもが暖かくなり、白々とした光の中、何かの鼓動を伝えてきたのだ。

 エステルは恐る恐る目を開いた。

 そして、それを目にしたのだ。


 どんな毎日だろうが、やってくる朝はきっとこのように暖かいものなのだ。見る目が違えばそれは勝手に汚されることだってあるのだろう。でも、今エステルが目にしているものは、何にも替え難く大切な景色だった。鼻から大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出しながら、嗚咽とともに一言漏らした。


「アッシュ・グラント——」


 もう一度、もう一度、もう一度。

 腕に抱いた全裸のアッシュを抱きしめ胸に耳を当て、鼓動を確認する。あああ、あの日の夜、警備隊の詰所で見つめた身体がここにある。あの時私を「おかしなやつだ」と笑った顔がここにある。エステルは天を仰いで、力の限りに泣き叫んだ。それは絶望でも恐怖でもなく。心の底から湧き出てきた歓喜だった。





「なんとかなったようね」

「こ、これでですか?」

「ええ、ロアが失敗していたらリードランは崩壊、私もここに来た意味が無くなって……なんだったらアドルフ君を連れて海に飛び込んじゃってたかもね」

「ええええ、冗談にしては重いですね」

「冗談?」

「え? 違うんですか?」

「さあ?」


 アオイドスとアドルフの二人は、急速に収縮し始めた黒い壁に気がつくと今度はそれを追いかけるように転じたのだ。そして、すっかり消えてなくなった黒い壁、黒い穴が作り出した巨大なすり鉢のようになった大地を見下ろしていた。そのすり鉢の底に豆粒のように見えたのは、アッシュを抱えたエステルで、彼女の号泣があたり一面に響き渡っていたのだった。

 アドルフは背後から聞こえてきた無数の蹄鉄が忙しく大地を踏み鳴らす音に気がつき、後ろを振り返る。それは南から駆けてきたジーウとイカロスの軍だった。彼からはダフロイトに入り込んだ魑魅魍魎を掃討しながら逃げ遅れた市民を救助し、そしてこの場まで急ぎ駆けたのだった。

 当初は解放戦線との激突を想定したが、拍子抜けする程そういった戦闘にはならなかった。ダフロイト周辺に簡易的なコロニーを築いた屍喰らいの数が多く、これの討伐に骨をおったがそれも大した戦闘ではなかった。つまり、無傷というわけだ。


「あらー、凄いわねこれは。隕石でも落ちてきた?」

 せりたったすり鉢の崖に佇むアオイドスとアドルフの傍にやってきたジーウは、朝日に目を細めながら、ほぼ中央北区画が直径と思しきすり鉢を眺め、そう漏らした。

「魔導師ジーウ。私たちはこれに突っ込む予定だったのですか?」その後にやってきたのはイカロスだった。

「ジーウにイカロス、来てくれたのね」アオイドスは振り返り、援軍の将二人に微笑んでみせた。

「ええ、ええ。だってアドルフ君が危ないから来てくださいって。でも、アドルフ君、これ確信犯だったでしょ?」

 アドルフは、惚けた顔でくるんとした髪を掻きながら「え?」と返す。

「だってこれなら私達必要なかったでしょ?」

「ごめんねなさいねジーウ。頼んだのは私なの。万が一に備えて頼りになるあなた達へお願いをさせてもらったのよ」

「ふーん、それなら良いのだけれども」

 憮然とジーウはアオイドスに返すと「ところで」といい、すり鉢の底にいるエステルを指差した。

「あの子は? それに抱きかかえているのは?」

「あの子はエステル。アークレイリ、ベーン家の長女よ。それで寝転がっているのが、アッシュ・グラント。宵闇の鴉」

「あらー、そうなのね。アッシュ・グラントって本当に居たのね。驚いた。素っ裸なのは彼の趣味?」

「ジーウ……違うに決まってるじゃない。後で色々と説明をするわ」

「ええ、そうしてちょうだい。それでどうするの?」

「まずは彼女らをひっぱりあげないと」

「確かに、そうね」


 それを聞くや否やアドルフは軍馬を降りて、急勾配の崖を滑り降りていった。

 イカロスもソレに続き、騎士団員の数名もソレにならった。

 朝靄が立ち込めるすり鉢の底では、まだエステルの泣き叫ぶ声が響いていた。

 空には一羽の黒い鳥が東の空に向かって翔んでいく姿が見えた。

 空を仰ぎ見ていたアオイドスはそれを見ると俯いて、小さく溜息をついたのだった。

「アオイドス、私達も行きましょう」

「ええ」



3_Knockin' on heaven's door _ Quit

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る