天国の扉_development
「よお大将、生きていたのか。アークレイリ人ってのは頸を跳ねられようが、おかまいなしか? それとも——人間をやめたのか?」
爆ぜる炎が空気を温め風をなびかせる。
それは、<宵闇>をすっぽり覆い隠した外套をひらひらと踊らせ冷たい空気に還ってゆく。アッシュは黒鋼の大剣を突き出し、切っ先を大男に向けた。あたま四つ分は大きい男を前に怯んだ様子はない。
「人間? おお、そうか。この男のことか」
「リードラン解放戦線将軍ネリウス・グローハーツ」
「うむ、如何にも。この男はかつてそう名乗っておったよ」
「隊員達ごと呑み込んだのか?」
「おうよ」
「どうやった?」
「何がだ」
「どうやって丸ごと呑み込んだんだ?」
「ふむ。それはあれか、どうやって飯を喰うのかと訊ねておるのか?」
「いいや、まあいいさ。大将、少し時間をくれないか」
「どういうつもりだ」
ネリウス将軍と呼ばれたそれは怪訝に問いただし、叱責の言葉を続けようとした。しかし、それは呑み込んだ。アッシュが右手をかざし制止の合図を送ったからだ。人間に臆することなどはない。だが何故だろうかアッシュの所作は将軍と呼ばれた男に、やり辛さを与えた。言葉を呑んだ将軍を横目に確かめたアッシュは背後の二人——魔導師と野伏へぶっきらぼうに言葉を投げた。
「こいつを頼めるか?」アッシュはエステルを一瞥した。
「え? どういう——」それに目を丸くしたエステルは一歩アッシュに詰め寄った。
それにアッシュはエステルの肩を押し、早く引き離せといわんばかりにアドルフに視線を絡める。当の野伏は事の顛末へついていけず肩を竦め「一騎打ちですか?」とおずおずと訊ねた。そもそもアオイドスは、この二人がやってくる前にこの場を去りたかったのではないのだろうか。その証拠に吟遊詩人は苛立ちの表情を浮かべた。
「ああ、ちょっと訳ありでな」
「アッシュ、これを相手に——人ですらないこれを相手になぜ一騎打ちなんか挑むの? この方々を助けるだけじゃないの?」
エステルはアドルフとアオイドスを一瞥し、アッシュの腕にしがみついた。しかし、アッシュはそれを煩わしそうに押し退け、そして後ろの二人へ「こいつを頼む」と短く頼んだ。
一歩も下がろうとしないエステルにアオイドスは眉をひそめ、赤髪をなだめ、そして<宵闇>から引き剥がすと「あの人なら大丈夫」と耳打ちをした。エステルは怪訝な表情で黒髪黒瞳の吟遊詩人を見ると「でも」と小さく零す。
「すまない。できればダフロイトの外に出てくれ」
アッシュはそれをどこか寂しそうな顔でそれを見届けると、一言そう云い再び大男と向き合う。
そして「待たせたな大将」と黒鋼を握り直した。
※
「アッシュ!」エステルは精一杯の声を挙げた。
抗えない眠気というものは、ただ疲労から来るだけのものではなく何かからの逃避であったり、極限の寒さの中でも不意にやってくる。そして不意を突く眠気というのは、どこか気を失う感覚にも似ている。
エステルは渾身の叫びの直後にそれを感じた。
不意に襲われた眠気に意識が遠のいたのだった。それは吟遊詩人が優しく額においた人差し指から流れ込んでくる暖かな流れに誘われ意識が微睡んだからだった。アオイドスは倒れ込むエステルを優しく抱えると「ごめんね」と赤髪姫の耳元に囁いた。
「アッシュ——アッシュ・グラント」
喉元に何かをつっかえたように遠慮気味に<宵闇>を呼んだ吟遊詩人は、その呼びかけに答えは返って来ないことを知っていた。だから「もうすぐフリンティーズからジーウ魔導師団とイカロス騎士団がやってくるはずよ」と続け、アドルフとともにその場を離れていった。
「そうか」アッシュはただ短く答えるだけだった。
アオイドスはそれに、一度だけ目を伏せ口を一文字に縛り、馬を呼び出した。
アドルフ、アオイドス、そしてエステルを乗せた軍馬は瓦礫の山を掻い潜りながら南へと走っていった。
※
「男よ名を訊いておこうか」
「アッシュ・グラント——お前はさしずめ、魔女が放った獣の一人なんだろ?」
「そうさな。気がつけばそうだったよ。色欲らも同じようなものだろ」
「アレクシスのことか?」
「そうか、今はそう名付けられているのだな」
「ああ」
筋骨隆々とした身体を包んだ革の軽鎧。それは申し訳程度のもので、大男にとってはきっと飾りでしかないのだろう。四肢を支えた筋肉は今や浅黒い肌を紅潮させ、ボコボコとあちこちに膨らみを作っている。そう、それこそが大男の力の源であり防御の要なのだ。大雑把に削り出された鉄塊を軽々と片手で扱い、肩に担ぐ姿はまるで荒ぶる戦神だ。
アッシュも同じく両手剣を肩に担ぎ、大男と対峙する。何処までも暗く黒い外套の中に着込んだ軽鎧も同じ黒、黒鋼の刃に黒鋼の鱗籠手、どれもが深く暗く黒い。影に潜み人知れず動き回るのにはこれが丁度良い。
「さあ大将、準備はできたぜ」
担いだ刃を静かに一本腕で構えたアッシュはジリジリと間合いを取る。
大男もそれに合わせ素足で大地を踏み締め、心なしか右足を後ろにとった。
「おうよ」
落ち窪んで見える双眸に浮かんだ赤黒の瞳が大きく揺れたように見えた。
すると大男は牙を剥き出し、不敵な笑みを浮かべた。
※
ドドドドド——
白い軍馬と栗毛の軍馬がダフロイトの南半分、被害の少ない商業地区を疾走した。
街道のあちこちでは北から逃れてきた市民に多くの負傷兵が、思い思いにへたり込み、南警備隊や教会の魔導師、近くの商人に孤児院の職員といった被害を受けなかったものから救助の手を差しのべられた。子供が両親を探す叫び声、深傷を負ったものの呻き声に、大切なものを奪われ泣き叫ぶ声、どれもがこの惨状が生み出した悲痛の合奏に厚みと重みとなった。
アオイドスとアドルフは街道を往来する人が多くなると、愛馬の速歩を緩めその惨状を目に焼き付け南へ進む。
南大門にほど近い宿場街へ差し掛かると、広場には幾つもの天幕がはられ、魔導師達が忙しく怪我人の手当に走り回っている。警備隊員らしき一団は、指揮を執る男から指示を仰ぎキビキビと資材の運搬や怪我人の搬送に忙しく走り回った。魔術師達も同じで指揮官の元に集まると指示を仰ぎ、すぐさま騎乗の人となりあちこちに散開していく。
そんな大人の舞台で少女が広場の井戸から水を運び天幕に運び入れる姿もあった。ここでは五体満足であるのならば大人だろうが、子供だろうが手を取り合い助け合う。自然と自分ができることを見つけ、それを使命としてやり遂げるのだ。
「アオイドスさん!」
「アイネ! なぜここに? ランドルフはどうしたの」
「おじさんは、あそこで皆んなにお仕事を伝えているわ」
天幕の前を通りかかった二人の横にひょっこり姿を現した金髪の少女が、不意に声をかけた。それは先ほど別れたアイネだった。
吟遊詩人は軍馬から飛び降りアイネへ駆け寄った。アイネが指差したのは、先ほどから手際よく指示を飛ばしている指揮官だった。
「あら、本当ね。街から出なかったのね」
「うん。ここはまだ安全だから少し待っていてくれって」
「そう。それであなたは何をしているの?」
「お手伝いよ。お父さんならきっと手伝ったとはずだから」
そう云うとアイネは、目を細めて眉間に皺を寄せながら、何かを真似ているような仕草を見せた。きっとそれは父親の表情を真似たのだろう。
「いい子ねアイネ。お父さんの真似?」
「そうよ! お父さんって無口で何考えているか分からないんだけど、何か思い付くといっつも、こうやって目を細めて皺を寄せるの」
「そう、よく見ているのね」
アオイドスはそう云うと綺麗な若々しい金髪を撫でながらアイネを抱きしめた。きっとこの子の父親は、今アッシュが対峙するあの大男に殺されている。いや、あれが始祖であるならば喰われている。アイネは頭のいい子だ。それも薄々わかっているだろう。だからなのか、余計なことは考えぬよう大人の手伝いをしているのだ。しかし、それでもやはり端々で父親のことを思い出し、こうやって口にするのだ。
そして、寂しそうな顔をする。
それはどこかで見た面影。嗚呼そうだ。ミラもそうであった。アオイドスはアイネのそれにミラの面影を重ねた。「どうせまた直ぐに会えるのでしょ?」と懸命に強がったミラも同じように寂しそうな顔をした。
だからなのか、何も縁のない自分であったが、アイネの寂しさを包み込んでやりたかった。それは、ともすれば罪悪感を隠す代償行為だったのだとしてもだ。かたや、その寂しさを少しでも拭ってやりたいという気持ちも本心だ。
んーんー! とアイネはアオイドスの豊かな胸に顔を押し付けられ、ジタバタとして呻き声をあげた。そしてモゾモゾとこの迷惑な大丘陵を押し分けて顔を覗かせると「ぷはー」と声をあげた。
「アオイドスさん、苦しいよ!」
「あら、ごめんなさい。苦しかった?」
「そりゃそうだよ! こんな乱暴な胸に顔を埋めて嬉しがるのは——」
馬上でエステルが落ちないように支えているアドルフをチラリと一瞥する。
「まあ、そんなことどこで覚えたの?」
「ケイネスさんが畑の人達と話しているのを聞いたの!」
「そう、そのケイネスさんには今度、レディーの扱い方を教えないとね」
最後の方は小声でひそひそと話した二人は、クスクスと小さく笑い声をあげた。
アドルフはそれに気がつくと「え? なんですか?」と訊ねたが、アイネは「レディーのお話に男の子は入っちゃだめよ」と両手を腰に当てて、頬を膨らませて見せた。
「ああ、また先生のレディー講座ですか?」とアドルフは小さく溜息をついた。アオイドスが掲げる淑女像というものは、大体にして自分に都合の良いものばかりで、なんだったらいうことをきかない生徒がいれば尻を蹴り上げて追い回すような人なのだから、あてにならない。
「まあ、アドルフ君失礼よ?」
「あ! ランドルフさん!」
アイネはアドルフが小言攻めに会う寸前、こちらへ向かってきたランドルフに気がつき手を振った。
何度か隊員達に呼び止められ、指示を与えながらこちらに向かって歩いていたランドルフは白い外套に馬上の男、そして見覚えのある赤髪に気がつき、血相を欠き走り出した。
「みなさん、ご無事でしたか」
「ええ、あなたも無事でよかったわ」
アオイドスとランドルフは再会を喜び軽く抱擁し、馬上のアドルフはランドルフと握手をかわした。そして、アドルフに支えられ馬上で眠っている赤髪の女に目をやった。
「やっぱり、エステル」
「ランドルフさん、彼女をご存じで?」アドルフは驚いた顔でそう訊ねた。
「はい。訳あって警備隊の詰所で匿っていたのです。詰所も吹き飛んでしまったのでどうなったか気が気でなかったのですが、よかった。ところで、一緒にいた——」
「アッシュね?」アオイドスがランドルフの言葉を引き取ると「ええ」と神妙にランドルフがそれに返答をした。
「彼なら、北の大門でネリウスと戦っているわ——」
アオイドスは目を伏せながら声を曇らせた。
「なんと、まさかそんな——ネリウスとはあのネリウス将軍ですか? 確かアッシュに斃されたはずでは」
「ええ、そのようね。<宵闇>が一度は首を取っているような口ぶりだったわ」
「ここ連日——奇怪な事ばかりが起きます。一昨日はガライエ砦で吸血鬼の始祖が目を覚まし大騒ぎになりました。その際は<宵闇>が侵攻を喰い止めてくれましたが、立ち昇った光柱の影響かアッシュは危うく吸血鬼の傀儡となる寸前でした。今夜は死んだはずのネリウス将軍が——」
「ちょっと待ってランドルフ、今なんと?」
「アッシュが吸血鬼の侵攻を喰い止めて——」
「いいえ、そこではなくて」
「光柱の事ですかね?」
「ああ、そうよそれ。一昨日と云ったわね? 始祖の名前はアレクシス?」
「はい、その通りです」
「なんてこと——」アオイドスはそう云うと額を手で抱え頭を振った。
「どうしたのですか先生?」
アドルフは珍しく狼狽える吟遊詩人を心配して、声をかけた。
「いいえ——なんでもないわ。その時アッシュは気を失っていた?」
「はい。始祖が退いたときは、死んでいるのではないかと思ったのですが、エステルがすぐさま生きていることを確認したので、詰所に連れて帰ったのです」
「そう。そうだったのね——」アオイドスはそう云うと最後には周囲の喧騒に掻き消されるほど小さく「よかった」と付け加えていた。
その様子を見ていたアドルフは目を細め、吟遊詩人が狼狽えるさまを見守った。するとその時だった「ん」と声を漏らし、赤髪の女——エステルが身体を動かし目を覚ました。
アドルフに背中を預けるように抱えられていたエステルは馬上に居ることを直ぐには理解できなく左右を見渡しながら、アオイドス、アイネ、ランドルフ、そして後ろのアドルフと順に顔を追った。
「アッシュ!? アッシュ・グラントはどうしたの!?」
暫くは状況を飲み込めないエステルだった。しかしこの場にアッシュの顔がないことに気が付くと身体に雷が走り、無意識に馬上からひらりと飛び降りた。
アイネは突然目を覚ました赤髪の女が叫んだのに驚き、ランドルフの影に隠れ、その様子を見守った。怯えたアイネの頭に手を乗せたランドルフは「エステル、無事でよかった」と云い、十中八九、混乱をしているであろうエステルを、なだめるように近づこうとした。
「ランドルフ——ああ、よかった無事だったのね」
「ええ、あなたも無事でよかった」
エステルは、覚えのある声と顔が記憶の中で一致すると、少しだけ胸を撫で下ろした。しかし、それも束の間なにかを思い出したかのように目を見開き北の空を見上げる。耳を澄ませば喧騒と喧騒の隙間から腹の底に響く轟音の残滓が届き、そしてその度に夜空を赤黄色に染めては消えてゆく。
「行かなきゃ」エステルは口元に囁いた。
「え? どちらに?」とランドルフ。
「アッシュを助けなければ——あの人は私の命の恩人。借りを返さなければならないの」
エステルは外套を翻し颯爽と北に向かおうとした。踵を返す前、アドルフの馬鞍にくくり付けられた杖へ手を伸ばした。
それに、かぶりを振るったアオイドスはエステルの手を遮った。それもそうだ。このまま魔導師を北へやってしまえばアッシュとの約束を果たせない。ましてや魔導師を犬死にをさせるだけだ。
「もうやめて!」エステルの絶叫が響き渡る。
ピシャリ! とアオイドスの手を打ち据える音もそれに添えられた。燃えるような赤瞳が黒瞳を見据えた。それ以上の言葉は必要ないだろう。そうやってエステルは吟遊詩人へ訴えたのだ。私はアッシュの元へ行きますと。それは強い意志の表れであった。
緊迫した空気が流れた。しかしアオイドスは一歩踏み出すと、それを看過することは出来ないというようにエステルの前へ立ちはだかった。アオイドスにもまた魔導師と同じく譲れない想いがあるのだ。
「ネイティブが行っても足を引っ張るだけよ。やめなさい」
「あなた達<外環の狩人>は私達をそう呼ぶわね」
「ええ、そうね。それがどうしたの?」
「先生。もうやめましょう」
互いに譲れぬ想いをぶつける二人の行方は恐らく心の奥底のわだかまりを吐き出すこととなる。アドルフはそれを肌で感じ取ると二人の間に割って入ったのだ。これ以上は不毛だ。少なくともこの場面ではそうだ。
しかし、
「あの人は私達のことをそんな聞き馴れない言葉で呼んで見下したりしない。そして不器用に付き合ってくれた」
「そうね、それがあの人の信念ですもの」
「——あなたみたいに、なんでも知っているような顔をして私達をケムに巻くようなこともあの人はしない。だから私もそれに答えたいの」
エステルはアドルフの軍馬の鞍に掛けられていた杖をもぎ取ると、吟遊詩人に向け「だから、止めないで」と小さく呟いた。
「そう。それならそれで良いわ。それならば私も私に課した使命を果たすだけよ。意味はわかるわね」
アドルフの手を払いアオイドスはさらに一歩踏み出し、青い粒子を呼び出すと片手剣を手にし魔導師へ切っ先を向けた。
「先生! いくらなんでも」
アドルフはアオイドスに食い下がり「先生これ以上干渉してしまうと」と、少しだけ力を込め両肩を抑える。
「アオイドスさん、行かせてあげて!」
その時だった。
アイネがランドルフの影から飛び出して、吟遊詩人に訴えた。
小さな弁士は、魔力の奔流が襲ったあの時のように力強かった。
直感で良し悪しを感じ取り忖度はしない。規範的な判断というものは勿論あるのだろうが、純然たる気持ちに寄り添い他者をおもんぱかるその能力はきっと大人のそれよりも優れているのだ。
「アイネ——」
アオイドスはそんな小さな弁士が挙げた一言に、自身の狭量を恥じるよう目を伏せた。
(これじゃ私が悪いみたいじゃない——)
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